李 洪 志
一九九六年十月十二日
ヒューストン市政府とヒューストン市民が私に与えた栄誉に深く感謝し、また多くの法輪功の弟子が、私と同じように、ヒューストンの政府と市民の大法に対する支持と深い敬愛に感謝するよう希望しています。拍手によって私たちの謝意を表してみてはどうでしょうか?(拍手) 私は、ヒューストン市政府の友好と誠意、およびヒューストン市政府が私に与えた栄誉をすべての法輪功弟子、中国人と分かち合いたいと思います。
私は以前から白人、黒人、黄色人種やほかの種族を含むアメリカの法輪功弟子に会いたいと思っていました。法を得られたのは、あなたたちの縁が熟したからであり、私は皆さんがいかに修煉しているのか、ずっと以前から見に来たいと思っていました。
多くの人は私に会ったことがないのですが、多くの人は本を読んだことがあり、この法についても知っており、どうしても師父に会わないと安心できず、私に会って初めて安心できると思っています。実は、私はそれらの短文──あなたたちは経文と呼んでいますが──その中ですでに皆さんに教えましたが、私に会わなくても同じように修煉でき、同様に得るべきものを得られ、何ひとつ漏れるものはありません。真の修煉は形式にとらわれず、師父に会ったことがあるかどうかは関係ありません。皆さんが知っているように、釈迦牟尼佛は世を去ってすでに二千年あまり過ぎましたが、後世の人はずっと修煉しています。彼らも釈迦牟尼佛に会うすべはありませんが、同じように修煉して成就することができます。これは彼の経書が世間に残されており、彼の法身が人々を済度しているからです。
私はこれほど大きな法を伝えだしました。皆さんも本の中からすでに分かっているかもしれませんが、歴史上、これほど大きなことを行ない、真に完全で体系的な天に上る道理を人類に教えた人は、これまでいませんでした。過去の人類社会では、人類にこのようなものを残すことは絶対に許されていなかったのです。
もちろん、多くの人が釈迦牟尼佛の経書を読んだことがありますが、それは後世の人が整理したものであり、完全なものではありません。ある程度の道理を話していますが、後世の人が整理した際、伝説や記憶に頼ったので、できたものは断片的なものです。なぜこのようになったのでしょうか? 神がその歴史の段階で、それだけしか人類に残すことを許さなかったからです。当時、釈迦牟尼佛は確かに多くのことを話しましたが、その頃、インドにはまだ文字が無かったため、すぐに記録することができず、釈迦牟尼佛がいなくなって五百年後の後世の人が、やっと釈迦牟尼佛の話したことを文字を使って整理しました。もちろん、時間、場所、場面、そして対象とした当時の人の環境がすべて変わったので、その時のすべてを取り戻すことは不可能でした。それでも、佛経は真に修煉しようとしている人に佛理を理解させることができます。しかし、洪大な佛理からみればそれは完全なものではなく、ましてや系統的な宇宙の根本の法ではありません。しかし、釈迦牟尼は佛であり、彼の話した言葉は確かに佛性とその次元の佛理の現れを帯びています。イエス、老子も釈迦と同じ状況で、当時の彼らの説法の記録は残りませんでした。歴代に修煉して成就できた高僧も同じです。
私がよく口にする言葉ですが、私は今まで誰もしたことがないことを行なったのです。弟子の中でも「先生は人に天に上るはしごを残してくださった」という言葉が伝わっています。このことは神も話しています。神たちは「あなたは人間に天に上るはしごを残した」と話しています。釈迦、イエス、老子が残したものは非常に少ないか不完全なものでした。過去にはそうすることが許されなかったからです。
私が説いたこの法は非常に大きく、この法に従って修めさえすれば、あなたは圓満成就できます。これは過去の衆生にとっては想像もつかなかったことで、非常に多くの、非常に大きな天機に関連しています。しかし、あなたが修煉しないなら、この本を開いて読むと、これは人にいかにして良い人になるかを教える本だと気づきます。説いたことはその道理であり、このような本です。もし、あなたが修煉したければ、もう一回読んでみると、意識して一文字一文字の意味を探らないで、ただ真剣に一通り読めば、二回目を読み終わった後、あなたはこの本が一般の本ではないことに気づくはずです。一回目に読んだときに受けた感銘と中の内涵も、すべて変化したことを感じるでしょう。三回目を読み終えるころには、内涵はまた変化しており、前の二回とはまた違っていることに気づくでしょう。こうして読み進み、完全に三回読み終われば、あなたはもうこの本を手放すことができなくなっているでしょう。一生涯離れられなくなるでしょう。これはなぜでしょうか? 人の表面上から言うと二つの原因があります。一つは、人は皆知識と真理を切望しているということです。もう一つは、人には皆佛性があるということです。本の中で説いているのは佛理であり、あなたたちの佛性の一面と相通じており、読めば親しみを覚えます。真の法理はあなたを感動させ、これこそがあなたの求めているものだと感じるでしょう。
また、修煉には過程があり、法を学び始めたころには、あなたたちは良い人になる道理しか理解できません。実質的にこの本には異なる境地の理、異なる次元の理が含まれています。佛教の中で言われていることですが、三界内には三十三層の天があり、三界内には異なる次元があり、ある層の天まで修めるには、その層の天の理を知る必要があり、その基準に達して初めて昇華できるのです。修煉によって三界を超えたいなら、三界外の理が分からなければそこまで修められません。この法にはあなたが異なる高い次元に向けて修煉することを指導できる要素があります。さもなければ、私が話したように、小学校の教科書を持って大学に行っても、あなたはやはり小学生なのです。大学の知識を理解できていなければ、大学での学習を指導することができません。こういう道理なのです。しかも、この本では多くの天機をもらしているにもかかわらず、修煉しない人は表面上からは何も見えてきません。あなたが修煉しようとして、真剣にこの本を読んで、初めてその内涵が非常に大きいことに気づきます。どれほど大きいのでしょうか? あなたがどれほど高い次元まで修煉しても、ずっとあなたを指導できるほど大きいのです。
皆さんにお話ししますが、法輪大法を得られる人は皆特別な背景があり、縁がある人で、とても高い次元から来た生命もいます。あなたたちが世の中で見た人は、皆同じように見えます。表面上、彼が誰なのかあなたには分からないからです。しかし、私はよくこのことを話しますが、これほど大きな法は誰にでも簡単に得させるわけにはいきません。ですから、この法を聞くことができたのは、あなたに縁があり、縁によるものだからです。私が話した言葉に根拠のない言葉は一言もなく、これは将来証明されることになります。もちろん、これほど大きな法を伝え出したからには、私はそれに対して責任を負わなければなりません。人を済度できなければ、勝手に天機を漏らすことになり、天の法を破壊することになるので、これは絶対に許されず、誰もこのようにする勇気はありません。
皆さんが知っているように、過去には誰かが勝手に天機を漏らせば、天罰を受けなければなりませんでした。修煉者はなぜ口を閉じて話さないのでしょうか? その一つは、人があまりにも頑迷になりすぎているからです。もう一つは、修煉しない者は真相を知ることが許されていません。修煉者は天理を知っており、話すことはすべて天機であり、随意に常人に話せば天機を漏らすことになり、修煉者自身の次元が落ちてしまいます。それでは、今日私はなぜそれができるのでしょうか? なぜ、こんなに多くの人が修煉して次元が上がり、やがて圓満成就できるのでしょうか? それは私がこのすべてに対して、責任を負うことができるからです。しかも、私はこれを行なうときに最初から人間、人類社会、各界の衆生や宇宙に対して、責任を負うという基点に立って行なっています。こうすることでよく行なうことができるのです。法は異なる次元の内涵を含んでいます。修煉者は比較的高い次元から来ているため、すでに非常に高い次元まで修煉できた弟子もいます。彼らもこの法によって指導されています。
この法はどれほど高いのでしょうか? 過去に常人の中で法を伝える人は、佛の次元を越えた法を話すことが許されませんでした。さらに高い次元に、佛がいるのか、神がいるのかを人間が知ることを防ぐためでした。これには次のような原因があります。人間はどうしても人の認識で神佛を想像しますが、これは神佛に対して不敬です。さらに高い次元の佛が人間に知られると、佛の名前を軽々しく口にすることは、佛を冒涜することになります。さらに現代の人々は無意識のうちに佛を侮辱しています。過去の古人は本当に神佛を敬っていましたが、現在の人はたとえ信じていても誠の心からではありません。多くの人が自分は佛をとても敬っていると思っていますが、佛の名前を常に口に出し、直接その名を呼んでいます。事実上、そうすることで、すでに佛を冒涜しているのです。昔の人は佛という言葉を口にするとき、敬う心、崇敬の心が湧き上がり、とても神聖に感じていました。現在の人はそれがなくなり、食事のメニューに「
佛跳墻」という名前さえあり、とても気軽に使っています。
皆さん、考えてみてください。佛は人間と比べて神聖無比であり、常人の思考論理、思想構造、話の表現方式は、佛の境地には存在しません。そのため、人心を持って佛に対すればどのようにしても不敬なのです。しかし佛は人間に対して慈悲があり、人は迷いの中にいて、しかも反対の理の環境にいることを知っているため、人の過ちを気に留めず、人間を済度するために佛の存在を人が知ることを許しています。さらに高い次元の佛、さらに高い神を人が知ると、人間は彼らに対して業を造りやすく、不敬になりやすいのです。これが原因で人に知らせず、人間はさらに高い次元の佛を知ることができないのです。如来佛が人間を見れば、人間、常人はかわいそうなほど小さなもので、塵のようなものです。しかし非常に高い次元の神にとって、振り返って見れば、如来佛も常人のように見えます。彼らの次元はあまりにも高いからです。それでは彼らにとって人間はどのように見えるのでしょうか? 何ものでもないように見えるのです。皆さん考えてみてください。人類はずっと人間が常人社会でとてもよい暮らしをしていて、宇宙の中で一番えらい生命であると思っていますが、実際は常人社会のこの環境はこの宇宙の最低次元であり、宇宙の生命にとって最も汚いところだといえます。非常に高い次元の神から見ると、人類のところは宇宙のごみ捨て場であり、高次元生命の糞便の溜まり場です。そのため、汚い糞便の中から佛の名前を呼ぶ声が発せられれば、それ自体が不敬に当たります。このため、より高い神はその存在を人には知らせないのです。
私が先ほど話したことを皆さんはあまり気に留めなかったかもしれませんが、私が伝えるこの法は人が気軽に知識として聞くようなものではありません。来ることができたあなたには縁があるのかもしれません。皆さん、私が話したことを覚えておいてください。もちろん、どれほど大きな縁があろうと、法を得たら、あなたはそれを大切にすべきです。もちろんここに座っている皆さんは、皆大切にするでしょう。遠路はるばる国外から、香港や、さらにはヨーロッパから来た人もいて、目的は皆修煉のためにやって来ました。一つは師父に会うため、もう一つは法を聞くためです。あなたが善に向かい、修煉しようとしているからです。多くの人が師父の話したことを真理としていますが、実は、人間の真理で大法を評価することはできません。大法は宇宙の根本なのです。ですから私は、ここに座っている一人一人がこの縁を大切にすべきだと思っています。この法を得たからには、修煉し続け、この機会を逃さないでください。
この法が伝えだされた方式は歴史上のいかなる済度の形とも異なっています。なぜでしょうか? 皆さんはすでに違いが分かっていますね。いかなる種類の佛法が伝えだされた時も、人に出家するよう言っていましたが、私はここでそうは言いません。なぜかというと、佛教は佛教の範囲で佛教の話をし、道教は道教の範囲で道法の話をし、そして西洋の宗教も彼らの教義を超えることができないのですが、私は今回完全に宗教の範囲を超えて宇宙の根本の大法を話しているからです。
昔、修煉したいのであれば、常人のあらゆる物質的利益を放下し、深山や森に入るか、廟に行って、この世間や世俗から完全に離れて初めて清浄となり、修煉ができると言われていました。その目的は、物質的な利益への執着心から抜け出すことを強化するためです。私はあなたたちにこのような道を歩むよう導きません。なぜかというと、私はこのような情況を知っているからです。つまり、人ができるだけ早く圓満成就に到達し、同時に多くの世の人が修煉できるようにするには、常人社会の中で修めることによってこそ可能になるということです。実は、複雑な環境の中でこそ真に自分自身を修煉でき、しかもこの複雑な環境を避ける場合よりも、修煉の時間が大幅に短縮されます。もう一つの肝心な問題は、多くの修煉方法では自分自身を修めておらず、副元神を修めているということです。昔はこれが一つの大きな天機だったということを、皆さんも本を読んで知っていると思います。今日、私はあなたたちに自分自身を修めさせ、この法を本当のあなたに与えるために、あなたたちが常人の複雑な環境の中で修煉することを選択したのです。このように修めることは人類にとっても良いことであり、修煉において常人社会に影響を及ぼさず、また人類社会に良いことをもたらします。修煉者も社会の一員であり、正常な仕事、生活を保ち、法を学んで修煉して圓満成就することができるのです。
私はあなたたちのためにこのような修煉の道を選びました。ですから、ほかの法門の修煉とは完全に異なります。皆さんは完全に宗教の範囲を越えていますので、「われわれは宗教ではなく、私はただこの法を人に伝え、人が法を得られるようにしているだけで、最後まで修めることができる者は圓満成就できる」と私はよく言っています。もし、ある人が今生に修煉できなくても、彼がこの法の表面の道理が分かれば、良い人になれます。こうすれば、人心を善に向かわせることができるので、社会にも良いことになります。
現在の社会では問題が次々と現れています。皆さんが知っているように、どれほど多くの法律が制定されても、やはり罪を犯す人がいます。問題が発生するとすぐに新しい法律が制定され、新たな犯罪が起こればまた法律が制定されます。人類自身に対する制限は多くなりすぎ、しかも人類は現在すでにどうしようもなく、自らが作り出したこのすべてに耐えています。自分を厳しく封鎖すればするほど、この方面でますます極端に走り、同時に人はますます宇宙の真理を認識しにくくなります。実は、社会が不安定になる原因は法律の条文の多少にあるのではありません。民族から個人に至るまで、すべての不安定要素は、「徳」の一文字で説明できます。現在の人は心性がだめになり、人としての規範を失っているために社会がこんなにも乱れているのです。人が皆非常に高い思想境地の中にいて、皆非常に高い心性を持っていれば、この社会はどのようなものになるでしょうか? 皆さん考えてみてください。人類社会全体はどのようになるでしょうか? 人々が皆悪事を働くことは、自分に対しても他人に対しても良くないことだと知り、誰もが悪いことをしなければ、警察さえ必要なくなると私は思います。そうではありませんか? 人々は皆自覚して人類の道徳規範を守ることになります。
もちろん、人類のこれらのことは、私が主に行なおうとしていることではありません。私がこの法を伝えだしたのは、皆さんが法を得て修煉して圓満成就できるようにするためですが、常人社会の中で修煉するにあたって、必然的にこのような作用を果たすことができます。これはこの法が社会で人類にもたらす良い点です。修煉者にとっては、人が真に法を得ることができるということです。複雑な環境の中で、現実の利益の中で、あなたが抜け出すことができるなら、あなたは立派であり、圓満成就すべきなのです。それでは、この中には何か条件があるのでしょうか? 人はこの法を修めると物質上のものはすべて手放さなければならないのでしょうか? そうではありません。歴史を通して、法が今日において、いかに伝えられるかの基礎が築かれてきたので、この法を伝え出した時、私はこの法が広く伝えられることを考慮に入れました。気功の出現も、私が今日、法を伝えるための道を整えるものでした。中国大陸では、当時の気功の形勢を、神を造る運動と呼ぶ人がいました。最初にこのような環境がなかったら、今日私は法を伝えにくくなっていたでしょう。実際のところ気功は私の伝法の道を整えていたのです。もちろん現在、偽気功師が出てきて、かき乱していますが、自然に出現したのなら、それも正常なことです。人類はすでにこうなってしまったからです。正法が伝えだされているので、必ずそれらの正しくない要素を刺激します。正しいものがあれば邪なものもあり、人がどの門に入るのかを見ます。修煉の中で悪い要素の邪魔があると、人は修煉の中で昇華することができます。悪いものの邪魔がなければ、修煉できないと私は思います。個人の修煉はこのようなものなので、多くの要素を刺激するのです。
この世に生きているからには、気持ちよく生活したいと思っている人がいます。常人がこのように考えるのは間違いではありません。人はどうしてもよりよい暮らしや楽しくて苦の少ない生活を求めるものです。しかし、修煉者であるあなたに教えますが、ある程度苦を嘗めるのは悪いことではありません。宇宙の理は人類のところでは反対になり、人類のこの空間の理は逆なのです。考えてみてください。人類社会の人々が皆、快適な暮らしを求めたいと思うとき、お互いに争って利益を得ようとし、ほかの生物にも悪影響を及ぼします。人は生きている時は業を造り、他人やほかの生物に危害を与えています。ただ業を造って業を返さず、苦を嘗めずに業を消さないでいると、業はどんどん溜まり大きくなります。最後にはどのような問題が起こるのでしょうか? 考えてみてください。人間が内から外まですべて黒い業力に占められたとき、この生命は滅ぼされてしまいます。人の生命が本当に滅ぼされてしまい、永遠に存在しなくなるのです。言いかえれば、ある程度苦を嘗め、辛い目に遭い、苦痛の中で業を消せば、後で幸せになれるのです。これは宇宙の正理と生命循環の規律です。昔、年配の人が、人は子供の頃に病気にかかったり、若いころに辛い目に遭ったりすれば、後で比較的良い生活ができるとよく言っていました。一般的にはこうです。これは人が業を消すことの規律であり、業を消さなければ幸せが得られません。業力が多すぎる場合、幸せはどこから得られるのでしょうか? この業力そのものが、あなたを辛くさせたり、多くの苦を嘗めさせたり、多くの犠牲を払わせる根本的な原因なのです。これは人間についての話です。
修煉者として、皆さん考えてみてください。業力を消さず、苦を嘗めずに、ただ心地良く過ごしたいのであれば、どうやって修煉するのでしょうか? ここに座って「私は今日三界を突破し、明日佛になりたい」と考えても得られるものではありません。実際の修煉の中で、現実社会の中で風雨に打たれ、常人の中での執着心を取り除き、放下できない執着心を放下しなければなりません。もちろん文化レベルがある程度高い人や年配の人は比較的よく行なうことができます。一般の人とトラブルが発生し、困難に遭ったときに、冷静になって他人と同じように争わないようにすることができます。これは長年の社会経験の中で理解したことであり、その中には人間の恐れる心ややむを得なさも含まれています。修煉者は、最初からこの問題を見抜くべきです。
修煉者はトラブルに遭ったとき、それに耐えるべきです。耐えることができてこそ、真に昇華できるのです。他人にいじめられたとき、あなたは徳を得られます。いじめられているとき、あなたは確かに辛い目に遭っているので、あなた自身の業力も消去され、徳が生まれます。あなたは修煉している人なので、徳はやがて功に変わります。それではあなたの功も上がるのではありませんか? あなたが耐えていると同時にそれを正しく認識し、怒りや憎しみを抱くことがなければ、あなたは自分の心性も高めているのではありませんか? この理はまさに反対から見るべきです。
私がよく言うことですが、他人にいじめられたとき、厄介なことをもたらされたとき、あるいは苦難に遭ったとき、その人を憎まないでください。あなたは修煉しているからです。その人がトラブルを起こさなければ、その人が向上する機会をあなたに与えなければ、あなたはどのように修煉して向上することができるのでしょうか? ですから、あなたは憎んではいけないばかりか、心の中でその人に感謝すべきです。「人としてあまりにも女々しすぎるのではないか」と思う人がいますが、そうではありません。このような環境がなければ、確かに業力を消すことはできません。あなたが求めるのは安逸ではなく、あなたたちの修煉も常人社会の修煉環境から離れてはなりません。
先ほど話しましたが、この法を伝えだす時に、社会上どれほどの衝撃をもたらし、どれほどの人が学びに来るのかを、私は初めから分かっていました。現在、中国でこの法を毎日修煉している人は一千万人以上にのぼり、この法を知っているが、修煉をしているかどうか分からない人も含めると、一億人以上になります。また、近い将来、これが世界に非常に大きな衝撃をもたらすことを私は知っています。現在、この法はまだ科学界に理解されていませんが、将来の人類社会の科学もこれによって非常に大きく変化するでしょう。私は確かに人類に多くの天機を漏らしました。人類は完全に閉ざされています。人類の智慧も制御され、あなたが常人社会でどれほど学問があって、どれほど立派な肩書きを持っていても、やはり常人にすぎないのです。また現在の実証科学は、人類を閉ざす方向に人を導いているので、人は宇宙の真相を真に認識することができないのです。
人が修煉の際にある程度苦を嘗めたり、苦痛に遭ったりするのは良いことだということをここまで話してきました。法輪大法を修煉するからには、気持ちよく修煉し、魔難もなく功が上がり、さまざまなトラブルなどの妨害があってはならないと言う人がいます。修煉者は業を償わず、境地を高めなければ、永遠に功は上がりません。ある人は、家族が煉功することを許さず、修煉する環境や時間も与えてくれず、さらには離婚の話まで持ち出されたと言います。しかし、これは本当とは限りません。あなたが修煉にどれほどの重きを置いているかを試しているのかもしれませんが、その現れは確かに激烈です。修煉は厳粛なものです。一つ一つの関や難は決して冗談事ではなく、修煉者に何かトラブルが起きたときは必ず原因があります。実は、誰かがあなたとトラブルを起こしているとき、それは皆あなたの向上を手伝っています。あなたは思想境地を高めると同時に、苦痛に耐える中で業を消しています。そして同時に、あなたがこの法に対して確固たる信念を持っているかどうかを試しています。この法に対して確固たる信念を持っていなければ話にもなりません。
説法の中で私は学習者たちの困惑しているところを見つけ、それについて話しているので、必ずしも系統的ではありません。皆さんも、私が今日話したことを今後の修煉を系統的に指導するものとして扱わないでください。あなたたちの修煉を系統的に指導するのは『轉法輪』だけです。今後、私が話すことは皆『轉法輪』についてです。皆さんの修煉を指導するのは『轉法輪』だけであり、これが最も系統的なものです。ここにいる多くの人は文化レベルが比較的高い人たちです。台湾、中国大陸、あるいはほかの国から来た華人であっても、古くからの華僑以外は皆文化レベルが比較的に高い方に属します。華人の中の精鋭ともいえるでしょう。伝えだされたこの法は、ほかの気功とは非常に大きな差があると私はよく言っています。ほかの気功を練る人は年配者が多く、その中でほとんどの人は退職後にやることがなく、身体を鍛えたいと思って気功を練っています。しかもそれらは皆気を練るものです。しかし法輪大法を煉る人は違います。一部は年配者ですが、青年、壮年が占める割合は非常に大きく、しかも彼らの文化レベルは比較的高いのです。
私が法を説き功を伝えるときも、ほかの気功師とは違います。一般の気功師は簡単に道理を説明してから動作を教え、信息を発します。私はこのようにはしません。真に法を伝えてあなたたちを向上させるには、私はまず法を説かなければなりません。毎回の講習会で、毎日私は一時間法を説いて、その後に圓満成就の手段である煉功の動作を教えます。ほかの気功とは違うのです。法理の内涵も非常に深く、文化知識の高い人ほどよく理解でき、この法が素晴らしいと思います。知識の高い人は容易に理性で法を認識することができます。もちろん、文化レベルの低い人も縁があって来たので、神佛に対しては一定の認識があり、特に法理上ではっきりと認識できれば、非常に速く向上します。
ここにいる皆さんの中には法輪功についてまだあまり分かっていない人もいるので、もう少し概括的に法輪功の状況を話したいと思います。ここに来たからには皆さんに少しでも多く話したいのです。私の伝えるこの法は非常に古い歴史を持っていて、話し始めると長くなります。現在の人類社会は、何回もの文明の興廃を経た後、人類が再び新たに発展してできたものです。これはどういう意味でしょうか? この米国の陸地、つまりアメリカ大陸を例に挙げると、この大陸は何度も海底に沈み、何度も地上に上がってきたものです。この大陸での文明も何度も繰り返され、毎回の文明は人間にとっては皆、遥か長い年月です。もちろん、比較的期間が短いものもあります。これは人類の道徳があまりにも早く堕落したことが原因です。常人を超越した角度から歴史を見れば、常人が見る歴史とは異なる概念になります。常人は現在の人類文明の中でのみ歴史を見ていますが、修煉者や常人を超越した者の歴史に対する認識は、今期の人類の文明を遥かに越えています。そのため、私は歴史を非常に遠いところまで見通しているのです。
この法輪大法の歴史も非常に古く、相当昔からあります。その起源をたどると、現在の人類の時間に対する概念では表すことが難しいのです。皆さんに教えますが、法輪大法の法理は非常に広大で、次元は測ることができないほど高いのです。この法門で修煉する弟子は圓満成就した後、法輪世界、またはほかの多くの天国世界に行くことができます。天国世界に触れたので、皆さんに教えますが、宇宙の中には無数の神の世界があり、私たちの銀河系の範囲内でも多くの対応している天国があります。人類も佛についてある程度の認識があり、阿弥陀佛は極楽世界を司っているほか、琉璃世界、蓮花世界、美好世界や、神が司る神の世界があります。西側の宗教のイエス、聖母マリア、そしてほかの正教もそれぞれの天国があります。もちろん、一部の天国は人類が認識する宇宙の範囲を遥かに超えており、この小宇宙の範囲を超えています。そのため、私が修煉のことを話すと、時間的にも空間的にも非常に大きなことに及ぶのです。
先史の遥か遠い昔、今期の人類文明以前に、私は世の人に広く法を伝え、人を済度したことがあります。その時は今の佛教のように人を済度していました。しかし今回、私は大法の根本的な法で、さらに大きなことを行なっているので、話し始めると内涵が非常に大きくなります。行なおうとしていることが非常に大きいため、多くの佛、神、道も私の行なっていることに協力しています。この法は佛家の理だけでなく、宇宙全体の理を話しているからです。
宇宙はすべて「真・善・忍」の物質要素から構成されています。非常に高い境地では「真・善・忍」なのです。真・善・忍の中から、良いもの、美しいもの、慈悲が生まれ、正反の二種類の要素も生まれます。「忍」からは、忍耐できることと忍耐できないことが生まれ、このように法は下へ行くほど法理が大きく複雑になります。陰陽や相生相克も「真・善・忍」から生まれたものであり、各次元や境地の中で、下へ行き人間のところまで至ると、きわめて複雑になります。人類には善と悪、良し悪し、情がありますが、しかも人間の理は逆になっています。その理の中には、王者が国を治め、武力で天下を奪い、強者が英雄になることが現れました。人類は半神文化のあと、人類社会でのいわゆる仁、義、礼、智、信などのさらに複雑な文化的表現が現れました。人類には正の法理がないため、人は宇宙の真の法が何かを知らず、真の良し悪しも分別できません。また、人間は皆佛性と魔性によって同時に構成されています。人が情緒不安定なとき、悪念や衝動に駆られたとき、それは魔性の一面が働いています。人が理性のある状況の下、心和やかに物事を行なっているときは、佛性の一面が働いています。
法輪大法は宇宙のすべての次元の理と物質生命の表現を包含しており、含まれないものはなく、漏れるものもなく、すべてがこの法の中におさまっています。大法は佛家の範囲を超え、すべての佛、道、神の理、そしてそれらを超える理を含み、すべてが中に入っています。大法は宇宙を生み出し、宇宙のすべての基準を定め、各次元の衆生を造りました。大法を伝える中、多くの各次元の神、佛、道が、私がすることを手伝っています。今のところ、衆生が法を得ることにおいて、最も法を得難いのは宗教の中の人たちです。彼らの心の中には彼らが信じる神、彼らの佛、彼らの道がいて、ほかにも神、佛、そしてさらに高い神がいることを信じません。これによってこの人たちは大法を聞いたり読んだりしようとせず、これは彼らが法を得ることを妨げる要素になっています。ここでは彼らが良くないと言っているのではありません。ただ彼らが信じているのは過去の真の神、正の神であるがゆえに、彼らは法を得ることが難しくなり、障碍となります。彼らは、宗教が人を済度できない時期にきており、神たちもこの法を得ているということを知りません。
皆さんが知っているように、釈迦牟尼は「私の法は末法の時期には人を済度することができない」と言いました。この言葉を気にする人はほとんどいませんが、実は現在末法の時期に入ってすでに長い時が経ち、法は完全に失われました。現代の人は、宗教の中の神佛が過去に話した法の真の意味を理解できず、出家した人も経書の本来の意味が分からなくなりました。しかも歴代の多くの和尚が書いた多くの書物も経書として人々に読まれています。法は乱れ、世の人はどう修めればいいのか分からなくなりました。私はキリスト教の人に、「他人があなたの左の頬を打ったなら、右の頬も差し出しなさい」というイエスの話が何を意味するのかと聞いたことがありますが、彼らも明確に答えることができませんでした。つまり現在では、神が話した言葉の本当の意味を理解できる人はほとんどおらず、現代人の思想観念に基づいて神や神の言葉、過去の大覚者の話した言葉を理解しているため、法をまったく理解できなくなってしまいました。実は、イエスの話した言葉の意味はとても簡単です。ほかの人があなたを殴ったとき、その人はあなたに徳を与えます。あなたが苦痛を味わうとき、自分自身の業も取り除くことができます。あなたが平然としてもう一方の頬を差し出すことができるなら、あなたはすでにとても高い境地にいます。実は、宗教を信じることはつまり修煉であり、もともと修は己にありて、功は師にありなのです。あなたが人の一面をよく行なえば、イエス、神、佛は功の演化を助けてくれるのです。彼らは皆このように彼らの済度する生命を手伝っています。当時の文化、言語、文字等の制限の中で、イエスはただ理の表面を話しただけで、その実質を話しませんでした。
私は今日法を伝える中で宇宙の法理を全面的に話しましたが、それでもやはり末法の時期に人が法を得ることは難しいのです。今回私がこの法を伝えるにあたって、私は衆生が法を得やすい時機を選んで伝え始めました。すべての宗教が末期に入り、人類が最も良くない時期に入ってから伝え始めました。この時の世の人は心に人としての基準がなく、真に神を信じる人もほとんどいません。こういう時を選んでこの法を伝えだしたのです。先ほど、法を伝える中で人に対して責任を負い、社会に対しても責任を負うということを話しましたが、実は神にも責任を負うことになり、何一つ宗教に干渉していません。今では宗教の神たちもその宗教を認めていません。社会がこの時期まできて人の心が皆悪くなったからです。しかし多くの人は、いまだ佛性と善根があるということを私は知っています。彼らはただ人類の腐敗の流れに従って下へ堕ちていっているだけで、この時期の人はやはり済度することができます。しかも法は大きく、済度する力も大きいのです。
この法は人類社会でただ一日、二日の一時的な盛り上がりで終わるものではなく、人を済度すると同時に未来を打ち立てています。法が大きいため、非常に大きな内涵を含んでおり、人が修煉の過程で功の中で煉りだすものも非常に豊富です。皆さんが知っているように、功能には多くの種類があり、各次元でも数万種以上あります。大法は佛家だけではなく、すべての能力を持つ宇宙の法だからです。それでは、これほど大きなものなら、皆さん考えてみてください。修煉を通して最後に圓満成就する時、果たしてどれほど多くのものが修煉を通して作り出されるのでしょうか? 修煉で圓満成就する時、次元は高く、威力も大きく、法力も相当大きいのです。
先ほど私は「相生相克」という言葉を使いましたが、相生相克とはなんでしょうか? 私はこの理を皆さんに話したいと思います。神はなぜ人類社会の悪人、天上の魔、そして下々の鬼をすべてきれいに取り除かないのでしょうか? そうしてはいけないからです。なぜいけないのでしょうか? どの境地の生命でも、負の一面の作用がなければ、成功するために必要な努力や困難を経験することがありません。低い次元の生命も、苦労や勤勉さを経ずに欲しいものを手に入れてしまえば、得たものの大切さを理解できなくなってしまいます。また、得たものの貴重さも感じられず、成功や失敗の意味も分からないままで、満足感の喜びや苦痛の意味も理解できず、さらには幸福とは何かを知ることもありません。宇宙の高い次元に正と負の生命があるからこそ、下へ行くと善と悪があり、さらに下には魔と佛、神と妖、善人と悪人がいて、宇宙の生命には活気が生まれ、矛盾の中でこそ、生命は生きがいを感じるのです。
先ほど空間のことを話したので、宇宙の空間と生命の表面物質の形式についてさらに話したいと思います。そこに充満しているのは無形で極めて微小な物質であり、これも生きている霊体です。また、それよりもさらに小さなものもあります。そして、表面にくるほど宇宙の粒子の粒は大きくなります。人類の現在の科学では分子、原子、中性子、電子、クォーク、中性微子などの粒子が認識されていますが、物質の粒子の最終──本源物質まではほど遠いのです。人類のこの空間のあらゆる物質は皆分子の粒子で構成されています。空気、今私が使っているこの机、その上に敷かれている布、鉄、土、石、水、あらゆるものは分子の層の粒子でできています。私はよくこの道理を話しますが、人間の脳は神に制御されています。科学者の脳も神に制限されています。人間はどうしてもこの空間を突き抜ける方法を思いつくことができません。分子にしても、原子にしても、彼らはただ粒子の個体の形式、一つの点、いくつかの粒子の存在する形式に注目して研究するだけで、すべての分子と原子の存在する面を見ることはできません。もちろん現在このような科学技術はまだありません。人が本当にこの面を見たとき、人は他の空間を発見することになります。ただこんなに簡単なのです。それらの空間は相当に広大で美しく、その時空や大小の概念は、常人の理念や思考方式では認識できず、人はこの考え方の枠を超えて理解しなければなりません。多くの微小な粒子で構成される空間は、私たちの空間よりもさらに広大なのです。
粒子はすべてエネルギーを持っており、このように考えると、かつてこの宇宙はエネルギーによって構成されていたことになるのです。人類は、原子には放射性があり、原子核と中性子も放射性を持っていることを発見しましたが、クォークや中性微子、微小な物質ほど、大きなエネルギーを持ち放射性が強いことを皆さんは知っていますか? 人間には、分子で構成されているこの表面の物質も放射性を持つことがまだ認識できていません。人間の身体も分子で構成されており、物質世界のすべてが分子で構成されているため、分子のエネルギーや放射性を感じることができないのです。人類世界の科学研究に使われる道具、実験に使われる機器自体が分子で構成されている表面物質であり、人類がエネルギーを測定する機器も分子で構成されているため、どのように分子自身にもエネルギーがあることを測定できるでしょうか? そのため、人間は分子のエネルギーを実験で見つけることができません。宇宙の中で分子は絶対に最大の粒子ではありません。分子より一層大きい粒子上に存在する生命も、人間がエネルギーを帯びている原子を見るように分子を見ています。修煉の中で、一部の修煉者は高い方へ功が伸びるだけではなく、低い方へも功が伸びます。それらの次元に立って人間を見れば、また別の意味があります。つまり分子の層というのは、まだ最も表面で、最も大きな粒子ではないのです。
私たちは、原子の中には原子核と電子があると知っています。電子が原子核の周りを回る形式は、この地球と惑星が太陽の周りを回る形式と似ていないでしょうか? それは小さく、粒子は微小ですが、その層の面はさらに大きく、つまり総体積がとても大きいのです。人間を例にとると、人の一つの分子の粒子を見るだけでは人は見えません。人を構成するこの層のすべての粒子で構成される表面を見ることができて初めて人が見えます。仮に、高倍率の超広角の顕微鏡で原子を地球と同じ大きさに拡大して、その上にどれほどの生命がいるのかを見ることができたとしましょう。もちろん現在の人にはできませんが、もしもそれが見えたら、それはまた違った景色でしょう。それらの生命にとってはそれも広大な天地なのです。
私が先ほど話したように、分子は表面上の最大の粒子ではありません。それでは、最大の層の粒子は何でしょうか? 最大の粒子が何であるか、人間が永遠に分かることはありませんが、分子より一層だけ大きな粒子なら皆さんの目にも見えます。しかし、そのように考える勇気はありません。天空のこれらの星、宇宙の中のこれらの星は一層の粒子ではないでしょうか? あなたの概念は現有のこの科学にとどまっています。天体の中に星が散らばっているように見えますが、星の間には皆内在の連係があります。巨視的に見れば、もしも人体が星を遥かに越え、あなたの体積、身体、思想、容量が星を遥かに越えたとき、人が分子を見るように、振り返って見てみると、これらの星は微小粒子の構造と似ていないでしょうか? 人はそれほど大きな智慧と想像力がありません。私に言わせると、佛陀こそ最大の科学者です。人類の科学は人類自身を封じ込めています。人類の実証科学は人に多くの落とし穴をもたらし、人類をここに閉じ込めました。それを超えると科学ではないと言われ、このようないわゆる科学で自分をさらに厳しく封じ込め、さらに宇宙の真相を知ることができなくなっています。現在の実証科学では、人間の発展は進化によってもたらされたといっていますが、実は進化論はまったく存在せず、人間は進化してきたのでもありません。歴史の中で絶えず何度も人類の文明が出現し、それぞれの文明時期には異なった内容があります。私は話し始めると皆さんにもっと分かってもらいたいと思います。皆さんは文化レベルも比較的高く、理解する能力も高いので、(拍手)私はこの方面についてもう少し話します。
宇宙の構成は現在の科学者の話すように、大爆発によって形成されたものではありません。人間は類人猿から進化したのではありません。当初ダーウィンが進化論を持ち出した時、進化論は欠陥だらけでした。彼自身もびくびくしながら持ち出したのです。その中の最大の欠陥は、猿が人へ進化する中での相当長い歴史の過程がないという点です。実物は現在になっても現われておらず、今日まで見つかっていません。それでも人はそれを受け入れ、まるで真理であるかのように信じているのです。現在の実証科学は一種の仮相であり、人類は方向を誤って、宇宙の真理を認識できず、他の空間の存在を認める勇気がありません。しかし、他の空間のさまざまな説明しがたい現象が人類のこの空間に反映されているにもかかわらず、人間はそれを科学的ではないとみなして受け入れず、認めようとしないのです。もし現代の科学方法で、今まで認識できないものを認識できたら、それもまた科学になるのではないでしょうか? 科学が科学に定義を下したため、人はそれを超越して物事を認識する勇気はありません。
私は宇宙について話した時、小宇宙の概念に触れました。この小宇宙はどれほど大きいかを人は想像する勇気がありません。もちろん、人間の思考はずっと宇宙がどれほど大きいのかを探ろうとしてきました。私が言う小宇宙という概念は、現代科学にはまだありません。科学では宇宙はただ目に見えるこの宇宙だけだと認識していますが、私の話すこの宇宙はどれほど大きいのでしょうか? 人類の数字、人類の言語では言い表せませんが、大体の構造を話すことはできますが──小宇宙の中に銀河系のような星系がどれほどあるのか、皆さんは知っていますか? ここに座っている皆さんの中にはこの方面に詳しく、書物から学んだことのある人もいるかもしれませんが、私が話すことは違います。銀河系のような星系はこの小宇宙の中で二十七億あまりあり、三十億弱です。これは人間の目で物体を見る方式、人が認識できる星の構造の形式で表したもので、将来の宇宙はまたこの数字とは違います。釈迦牟尼は、如来佛がガンジス川の砂の数のように多いと言ったことがあります。釈迦牟尼も如来佛であり、彼は如来佛がガンジス川の砂の数のように多いと言ったのです。これは佛の目で物体を見る方式で見ています。実は小宇宙内の星を漏れなく見れば、それは砂のように多く、分子のような密度です。この小宇宙の範囲には外殻があります。それでは、それは果たしてこの宇宙の最大の範囲でしょうか? もちろん違います。さらに大きな広大な空間から見れば、この小宇宙もまた巨大な空間の中の一つの粒子に過ぎません。
宇宙の外はどうなっているのでしょうか? かなり長い時空の過程を経て、遠くから見ると、一つの光る点があるように見えます。その点に近づくにつれて、光る点はだんだん大きく、だんだん大きく、だんだん大きくなり、このとき、それも一つの宇宙だと気づきます。私たちのこの宇宙の大きさとあまり変わらない宇宙です。それではこのような宇宙はどれほどあるのでしょうか? やはり人が物体を見る方式で言えば、大体三千のこのような宇宙があります。これは皆、人の認識および一種の物質要素に対する認識の概念の数字です。宇宙の構造はきわめて複雑です。この外側にはさらに一層の外殻があり、これが第二層の宇宙を構成します。そしてこの第二層の宇宙の外のさらに大きな範囲に、また三千の同じ大きさの宇宙があり、第三層の宇宙を構成しています。これは幾層の空間という意味ではありません。常人社会の宗教が唱える九層の天を、この層の粒子で構成される面に照らしてみると、この九層の天は、三界内にある一層の粒子で構成される空間の九大惑星の範囲に相当します。私たちの太陽系はあの須弥山の南端にあります。私はよくこう言いますが、生命と宇宙は永遠に人類の謎であり、人間は永遠に宇宙の真相を知ることはなく、生命を構成する最も本源の原因を探り当てることもできません。人間は永遠に、科学技術をそこまで微小なものが見えるほど発達させることはできないからです。「このように進めば人類の科学技術はますます高くなっていくのではないか」と思う人がいますが、実はそうではありません。人類の科学技術はほかの星の生物によって直接制御されていますが、人間の科学技術とこれらのほかの星の生物は、同時に神によってすでに按排されており、科学技術はただ神によって按排されたとおりに進んでいるに過ぎないのです。人類社会はただ天象の変化にしたがって動いているだけで、過去の歴史は絶えず繰り返され、今日の歴史もさらに以前の歴史の繰り返しと修正なのです。
私が先ほど話したこれらのことは、あなたたちの思想を広くするためであり、あなたの修煉にとっても良いのです。宇宙は人類が認識したようなものではありません。それではこの宇宙は一体どれほど大きいのでしょうか? 皆さんに話しますが、宇宙の概念はさらに億万層の範囲に達しても、巨大な天体の中の一粒の塵に過ぎません。人間に対して私は道理と多くの数字を用いて話すことができますが、人間はそれを感じ取ることができませんし、永遠にそれを見ることもできません。人間は神のような神体構造がないため、思惟容量と智慧はそれを全く受け入れることがきません。人間にはまた、そのような思惟形式がなく、巨大な概念を人の大脳は受け入れることができません。修煉者が高い次元に達したときに、大脳や思想、身体がすべて高エネルギー体となったときに、初めてそのような大きなエネルギー、大きな体積、大きな智慧を得ることができるのです。このため、人間の大脳は人類より遥かに高い感覚や高い次元に現れる現実を受け入れることができず、人間が求めることができる知識も限られています。
もう一方で、人が高い認識を持ちたいのであれば、それに見合った高い道徳の境地を具えていなければなりません。神は、人間が人心を持ったまま佛の次元に達することを許しません。人類の科学技術を佛と同じレベルに発展させようと思っても、それは絶対に不可能です。なぜかと言えば、皆さんが知っているように、人には人間の情、各種の執着心、七情六欲があまりにも多く、さらには闘争心、嫉妬心などもあります。皆さん考えてみてください。本当に佛の境地に達したら、佛の世界を乱してしまうのではありませんか? もしかすると、あなたが佛の世界で何かによって嫉妬心を起こして佛とトラブルを起こすかもしれません。これは絶対に許されないことです。色欲の心を取り除かず、この上なく美しい大菩薩を見て、神に対して色欲の心を起こすようなことは、天上では絶対にありえません。したがって、人間の科学技術が永遠に神佛の境地まで発展することは不可能なのです。つまり、人類の科学技術は永遠に神の境地に達することはできず、これは確実なことです。
私は先ほど相生相克の理を説きましたが、この話を続けます。非常に高い境地では、生命の存在も非常に単純で、思想も非常に簡単で清浄ですが、智慧はきわめて大きいのです。下の方へ行くと、同一生命の二つの異なる性質が現れてきます。さらに下へ行くと、それは二種類の異なる物質要素となります。宇宙の天体は非常に大きく、さらに下へ行くと二種類の異なる物質は徐々に対立性を持ち始めます。さらに下へ行くと、二種類の異なった対立する物質の異なる特性は、次第にはっきりとして、正と負の生命の存在形式が現れます。さらに下へ行くと佛(法王)と魔(魔王)が現れ、同時に陰陽、太極など多くの対立要素も出現します。さらに下へ行くと相生相克の理が生まれ、二種類の異なる物質の矛盾性もさらに大きくなっていきます。
特に人類社会まで達すると、この相生相克の理はかなり明らかになります。人は良いことや悪いことを行なうときに、相対する矛盾を克服してやっとそれを完成させることができます。個人にしても、団体、現代社会における会社、または政府にしても、あることを成し遂げるには、多くの矛盾を克服して初めて成し遂げることができるのです。天意に従えば、成り行きで自然に成し遂げられますが、そうでなければ、何事をするにも気持ちよく一気に成し遂げることはできません。人の次元の理に立って話せば、人が良くないことをしてもたらした多くの業力が原因となり、いったん何かをしようとすると、業を返さなければならないからです。相生相克の理はほぼいたるところにあるため、人は何をするにしても必ず困難が伴います。では、それはどのような良いところがあるのでしょうか? 法理は圓容します。もう一方の側面から話せば、一つの生命は相応の困難を克服し、欲しいものを得て初めてありがたさを感じ、それを大切にしようと思い、その後の満足感を得られ、勝利の後の喜びや幸せを感じます。このような対立性がなければ、皆さん想像してみてください。物事をしたいように行ない、やれば必ず成功し、何でもやりたいことができて、何も争う必要がなく、何をしても非常に容易に困難なくできるようでは、あなたは生きることがつまらないと感じるでしょう。困難を乗り越えて得たことで初めて幸せを感じるのです。これが人類の生存状態であり、このおかげで人は活力を持って生きることができます。
先ほど話したことを通じて、皆さん自身の思想が広がり、修煉において精進する助けになることを願っています。話したいことはまだたくさんあり、時にはあれもこれもと話したくなりますが、時間がとても限られているので、次のようにしたいと思います。皆さんは多くの質問を抱えてここに来ており、私に会っていろいろと尋ねたいことがあると思いますので、できるだけ皆さんのために時間を取って質問に答えたいと思います。皆さん、しっかりと聞いてください。これもまた法を説くことであり、しかも個別の問題にも関連しています。それではこれから皆さんの質問に答えます。立ち上がって声を上げて皆さんに聞こえるように質問するか、紙に書いて私に回しても構いません。
座席で手を上げて質問すれば結構です。紙に書いた質問は長すぎると読むのに時間がかかるので、皆さん単刀直入に、一つ目の質問、二つ目の質問というように簡単に書いてください。
弟子:年配で圓満にならない人はどうすればよいでしょうか?
師:この学習者が提出したのは代表的な問題です。ここに座っている中にも多くの年配の方がいます。彼の質問は、年配で圓満にならない人はどうすればよいのかということです。修煉は非常に厳粛なことです。現在の中国大陸のように、裏口を使えば何でも問題が解決する、そのようなことはありえません。それではどうしたらよいのでしょうか? 真に着実にしっかりと自分を修煉しなければなりません。
この質問に回答すると同時に、まずは修煉と仕事の関係について話したいと思います。修煉は日常生活には影響を及ぼしません。社会で会社を経営したり、政府の高級官僚になったり、世の中のすべての仕事の中で修煉することができます。昔イエスは、金持ちが天国に上がるのは、駱駝が針の穴を通ることより難しいと話したことがあります。なぜこのように言ったのでしょうか? 多くの人が金銭に対する執着を放下できないからです。皆さんに教えますが、実はお金がどれほどあっても構いません。あなたの家がお金を積み上げて作られていても、あなたの家の道が金で敷き詰められていても、あなたがどれほど高位の官僚でも、大統領になっても、良い人として努めることができます。あなたの環境の中で、あなたの階層のトラブルの中で自分を修めることができます。皆さん考えてみてください。今ここに座っている皆さんの中にも異なる階層の人がいます。なんとか食べていけるだけの暮らしを立てている人たちには、低い生活レベルの人たちの間でのトラブルがあり、この階層の人たちはトラブルの中で苦痛に耐え、良い人であり続けることで修煉の基準に達し、最後に圓満できます。そして中流階級の人たちも、その階層でのトラブルがあり、彼らはそのトラブルの中で良い人になり、向上することで、最後に圓満成就まで修煉することもできます。いかなる階層においても人は向上することができ、修煉できると私には分かっています。大統領にも彼なりの苦悩があり、自分の階層のトラブル、国家間、民族間のトラブルがあります。人類は皆同じなのです。人がこの世で生きるには必ず苦しみがあります。ですから、皆修めることができるのです。私がこのように言うのは、弟子たちに宗教の枠を超えて修煉について認識し、真に人間としての修煉を実現して欲しいからです。
高齢の人の修煉も同じです。私の功は性命双修の功法であり、修煉しながら寿命を延ばすことができるため、時間は足りるのではないでしょうか? しかし前提として、高齢の人はさらに精進し、厳粛に修煉に対処しなければなりません。高齢の人が何らかの原因で本当に圓満できなかった場合、生命の最後になって臨終の前に、来世は必ず修煉すると誓いを立てれば、法輪とその他の修煉のものを持ったまま生まれ変わり、前世に引き続いて修めることができます。(拍手) また、あまりにも苦しくて、もうこの世に戻って来たくない場合はどうするのかというと、修煉した分だけ得ることができます。その段階での修煉の次元がどこであるかを見て、もしも三界の中のどこかの層の天に達していれば、その層の天に行き、その層の生命となります。三界を超えていて圓満まで達していない場合は、天国世界に行き、そこの衆生になることができます。これらの世界は人が想像するように、中は佛と菩薩ばかりでほかに何もないわけではなく、その中には無数の衆生がいて、非常に繁栄した美しくて素晴らしい世界であり、中には天人の衆生もいます。(拍手) しかし人間にとっては彼らも神であり、世の人とは比較になりません。彼らはただ果位がないだけです。あなたの質問にはほぼ解答しました。(拍手)
弟子:真に修めている弟子には病気がないということをどのように理解すればよいでしょうか?
師:中国大陸の多くの地域で人々はこのようなことを言っています。病気になって治らない人がいれば、必ず周りの人はその人に「早く法輪功を学びに行きなさい。学べばすぐ良くなります」と言います。なぜこのようになるのでしょうか? 法輪功はとても早く修煉者の身体を調整できるからです。調整後、すぐに修煉を始められるので、常人が考えているのとはまた少し違います。ある人は煉功に来るとき、病気を治すという考えをまったく持たずに来ますが、それが最も良いのです。修煉の要求は執着しないことであり、求めずして病気が治ります。少しでも何かを求めるとそれは執着心で、結果はかえって良くありません。あなたがただ病気を治すためだけに来たのなら、あなたには執着があります。大法が世に伝えられたのは、人の病気を治すのが目的ではなく、人間を済度しに来たのです。病気が治るのは、済度される者のために身体を調整しているのです。執着のために来たのなら、病気のことが気になって心から離れられないということになり、そのため病気は良くなりません。
人類の理念は宇宙の理と比べると逆になっており、求めれば求めるほど手に入らなくなります。何かを求める心がなくなって初めて、病気のことを気にしなくなったことになります。修煉を始めたら病気を治すことは考えないでください。つまり、何も求めないでください。病気がある人は煉功する中で、病気のことを考えないでください。何も求めず、気にせず、ただ煉功のことを考えれば、煉れば煉るほど状態が良くなり、煉功を終えた後に家に帰って一晩ですべての病気が治るかもしれません。(拍手) このような現象が中国大陸の多くの地域で言い伝えられ、皆非常に不思議に思い、多くの人が学びに来て、そのためどんどん学ぶ人が増えています。
私はこの道理を話しました。何も求めなければ、その変化は最も速く、何かを求めれば遅くなります。私は病気に対してこのような見方を持っています。私が弟子にこれらのことをするときも、病気を治すとは言わず、修煉者の本体を浄化すると言います。浄化する目的は、修煉の基礎を作るためです。病気のある身体を抱えていては、功は出ません。それではどうするのでしょうか? 煉功するときはただ煉功することを考え、何も執着を持たないでください。何も求めずにいれば最も良いのです。こうすれば私はあなたの身体を浄化し、ほとんど病気のない状態にすることができます。しかし、修煉に影響を与えない範囲で、少しだけ業の消去や病気の感覚を残すことも時にはあります。なぜ少し残すのでしょうか? 悟性が向上しなければならない修煉者がいるために、このようにしているのです。皆さん考えてみてください。人間の表面上の身体にまったく病気がないとき、それは超常的な状態です。業を取り除く感覚さえないのは修煉とはいえません。そうであればもちろん信じます。信じないことがありえるでしょうか? 最後まで信じるでしょう。そのため、一部の人には状況に応じて少し修煉のための要素を残すことがあります。あなたが信じるかどうかをみて、修煉者に悟りの中で乗り越えさせようとするのです。そうではないでしょうか?(拍手)
しかし、もう一つの問題を皆さんに話したいと思います。人は修煉する中で、面倒なことや難に遭うことがあります。この難は二つの方面に現れます。一つは身体の具合が悪くなること、もう一つはほかの人があなたに腹を立たせることです。身体の具合が悪くなる原因は、皆さんに教えますが、病気ではありません。しかし現れる状態は病気と同じです。皆さん、すでに知っているようにそれは業を取り除いているのです。業を取り除くとはどういうことでしょうか? 実は私はあなたの身体全体を浄化しようとしているのです。人間は常人の中で転生し、一生また一生と、繰り返し生まれ変わり、二十数世、三十数世、あるいはさらに長い人もいます。それほど多く生まれ変われば、人間の中で生まれ変わるたびに、毎回大量の業を造ります。もちろん、各世において病気になったり、苦痛を味わうとき、一部の業を取り除くことはできますが、毎回の一生で多くなって、少しずつ溜まっていけば病気になります。人は病気になると医者にかかります。医者は病気を治療するとき、身体の表面を治すだけで、人は病気による苦痛から少し業を取り除くことができますが、ほとんどの業力と本質的に病気の元となる根本的な原因は他の空間にあり、医者はそれを動かすことができません。病気の根本的な原因がそこにあるため、人間は生々世々いくらかの業を残していきます。
皆さんは、現在の人の身体がどのようになっているのか知っていますか? 私は講義している時、骨の髄まで黒い塊に満ちた学習者を見ることがあります。もちろん、この空間では見えません。業力は他の空間にあるからです。それではどうすればよいでしょうか? 人間の身体は微小な粒子から表面の粒子まで、小さなものから大きなものまで一層一層立体的に見れば、木の年輪のように一輪一輪あって、そのすべての層が汚れています。私はその最も中心からあなたの身体を浄化するのです。あなたが修煉したくなければ、誰もこのようなことはしてくれません。昔、佛教では、人は一生の修煉だけでは成就できないと言われてきました。人は自分で自分を浄化することができず、向上するのはなおさらです。向上したいのであれば正法でなければできません。あなたたちが大法の中で修煉するなら、私はあなたたちの身体にたまった業力、生じた汚れ、身体が良くないすべての原因を押し出します。一気に表面物質の身体から押し出したのでは、人は耐えられず死んでしまいます。それではどうするのかというと、押し出す過程で大部分は他の空間から移動させ、あなたの身体から引き離します。あなたの身体の表面から押し出すのは、ごく僅かな一部に過ぎません。
それではなぜ表面から押し出すのでしょうか? すべてほかの空間から取り除けばよいのではないでしょうか? このようにすることは、天理に合わないのです。得るものがあれば失うものがあり、借りがあれば返さなければなりません。これは天理です。人間は業を造ると返さなければなりません。修煉者はなおさらです。実は、私はあなたにただ少し返させているだけですが、それであなたがすべてを返したことになります。なぜなら、あなたが修煉する願望を持っているからです。私はあなたに表面上で少し耐えさせるだけですが、それでもあなたにとっては、突然身体が重病になったかのように非常に具合が悪くなり、もう生きていられないと感じる人さえいます。悟性の良い人は知っています。「修煉を始めたのだから怖れることは何もない。法を聴き、本を読み、道理は分かっているのだから、さらに怖がることは何もない。」この素朴で確固たる一念は、金よりも光り輝いています。その人は薬も飲まず、医者にもかからずに、突然何事もなかったかのように治ります。これで一つの大きな難が過ぎ、多くの業が取り除かれ、さらに多くの業はほかの空間から押し出されました。実は表面から出たのはほんの少しだけですが、これでこの業は取り除かれ、あなたが償ったということになります。そのため、修煉の過程で身体の具合が悪くなる人が現れますが、この辛い感覚はいかなる病気とも違います。ですから、このような状況が起こるのです。その中であなたが根本的にどれほど確固として法を信じているのか、難の中であなたが自分を修煉者としてみなせるのか、このときあなたがまだこの法を信じているのかということを見ます。佛を修めるのは非常に厳粛なことです。
世間法を超えた修煉において、身体は高度に浄化されます。これは羅漢体とも呼ばれます。その時になると、身体はすでに高エネルギー物質の身体に昇華し、常人の細胞は全くなくなります。表面上は常人と同じように見えますが、実は違います。この時になると、もう病業はなくなります。世間の病気は、もうあなたのこの高エネルギー物質で構成された身体に影響を与えることはできないからです。世間法を超えると、すでにすべての病業を押し出しています。世間法の修煉では身体の具合が悪くなったり、危険なことに出遭ったりします。そのとき、あなたが恐怖を覚えることはないのですが、周りの人はとても恐く感じます。このようなことも現れます。真に大法を修めている弟子は多くいますが、修煉する中で何も問題はありませんでした。あなたが修めさえすれば私はあなたを守ります。もちろん、あなたが修めなければ私はあなたの面倒を見ません。私は修煉者のためにこのことをしているのです。ですから、あなたたちはほかの人を病気の治療のためにここに連れて来ないでください。常人のことは、私は今、面倒を見ません。法を破壊するようなこともしないでください。人は修煉しなければ、自分のすべての借りを返さなければなりません。たとえどんなことに遭ってもすべて因縁関係があるのです。これでこの質問の解答は終わります。
弟子:今日、皆さんの身体を浄化していただけますか? 特に、他の功法を学んだことで残ったものについてです。
師:皆さん安心してください。皆さんに教えますが、あなたたちがここに座って講義を聞き終わり、出て行く時には、皆すっかり変わっていることを保証します。ここまで話して、精進しない学習者にも告げますが、あなたは修煉者になろうとしているのですが、自分に対して厳しく要求せず、学んでも学ばなくても、修めても修めなくても構わないようでは、身体に問題が現れます。真に修めなければ身体が常人の状態に戻ります。その時になると、あなたはどうして身体がいつも悪いのだろうと思います。修煉は厳粛なことです。なぜ身体が悪いのでしょうか? これはあなた自身に聞かなくてはいけません。あなたは法を信じていますか? 自分が修煉者だと信じていますか? あなたの心は落ち着いていますか? あなたが真に修煉を貫き、人心を取り除くことができれば、一秒足らずであなたの病状はすべてなくなります。(拍手) 修煉は曖昧さを許しません。修煉する際、心が落ち着かずに「この法は本当にそうなのか?」と考えてしまうのは、「私は本当に修煉しているのか? 今は常人なのか? それとも修煉者なのか?」と言っているのと同じことなのです。
真の佛法修煉は、末法の時期の宗教のように気ままに行なうものではありません。修煉は非常に厳粛なことです。固い信念がなければすべてが無駄になります。あなたが名、利、情を放下できたのに、あなたが圓満できなければ、私もそれは不公平だと思います。人が名、利、情を放下できるということは、命を放下できることに等しいのです。人は何のために生きているのでしょうか? お金や、名誉、そして人間の情のためではないでしょうか? これらを放下できれば、あなたはまだ人間でしょうか?(拍手) 人はこれらのために生きており、神にはこういうものがありません。(拍手) しかし皆さんに教えますが、神は人が想像するような、そこにじっと動かずにいる彫像のようなものではありません。人間は知りませんが、天上は非常に美しくて素晴らしいのです。彼らは遊ぶことにかけては、人間より上手です。そこは高尚で、慈悲深く、限りなく美しくて素晴らしいところです。まさに彼らがそれほど高い境地にいるからこそ、彼らにはその能力があり、彼らの身体は漂うように移動し、飛び回ることができます。どこでもそのように素晴らしく、人間の言葉では形容することができません。天上の色はここにはない色で、神の姿は皆非常に美しく、あまりにも素晴らしいのです。
ここに座っている人は年配の人、もちろん若い人もいますが、修煉の中で人の身体はあなたの先天の本来の姿に戻ります。人は上へ行くほど若くなり、真に先天の本来の姿に戻ると、自分が非常に若いことに気づきます。人によっては、本人の年齢はとても高いのですが、その元神は若者もしくは子供かもしれません。皆さんが知っているように、多くの高齢者は老年性認知症を患い、人々は彼らを年寄りの子供と呼びます。彼らは子供と食べ物を取り合ったり、一緒に遊んだりするからです。なぜでしょうか? 人はよく「あの人は年を取りすぎて、もう駄目だ」と言いますが、現代科学の観点からは確かにそのように解釈できます。実は、年を重ねるにつれ執着心も放下され、人生の目的や追求も失われ、すべてを手放したときにこそ、その人の本性が現れてくるのです。その人の元神がもともと子供だった場合、年寄りの子供のようになるのです。本当にこういうことです。修煉は上に行くほど美しく若くなります。下の次元の生命を見ると、髪の毛もまっすぐ梳くことができずに、振り乱していると言う人がいますが、下へ行くほど醜くなるためです。修煉の中で上へ向上するほど美しく、身体は病気がないだけでなく、より清浄になります。
「特に、他の功法を学んだことで残ったもの」についてですが、真に修煉さえすれば、これらはすべて私が整えて処理します。これらのことを気にしないで、もう考えないでください。自分の考えからそれをなくしてください。ただこのことのために来たのであれば、それは解決できません。執着しすぎて、それをつかんで放さずにいると、私がそれを取り除いても、あなたはやはり安心できません。真に修煉したければ、どんな良くないものでも私はすべて取り除いてあげます。
弟子:今回、法を聞きに来ましたが、法輪を皆さんに授けていただけますか?
師:修煉しようとして、ここに法を聞きに来た人も、来られなかった人も私は皆面倒を見ます。法輪を与えるだけでなく、大法を修煉するからには、私は全面的に学習者の身体を調整します。そのため私に会えても会えなくても皆同じで、修煉しさえすれば、必要なものは皆与えます。中国で私の講義を聞いたことがある人はわずか数万人ですが、現在修煉している人は全国どこにでもいます。それほど多くの人は私に会ったことがないのですが、大法を修煉するために必要なすべてを彼らは持っています。私がこんなに大きな法を伝えるには、何もかも私の主体が行なおうとしても手が回らないので、一人一人と顔を合わせて面倒を見ることはできません。私は皆さんに法輪を与えています。あなたが修煉を始め、この本を読み、法が良いと思い、大法を修めたいと思えば、真にこの一念が起これば、必ず身体に違った感覚が現れることに気づくでしょう。
私はあなたに法輪を与えるだけではありません。皆さん考えてみてください。修煉しない人、修煉に必要な機制が備わっていない身体では何を煉りだすことができるのでしょうか? 法輪は私があなたに授けるすべてのものの根本です。そのほかにも、あなたの業力を取り除き、この世や各層の空間での恩讐や各種の
淵源の関係を解消し、身体の内外に、あなたの全身を変化させるためのさまざまな機制を与え、さらに丹田などの部位には、まるで種子のように、万を超えるさまざまなものを生成するためのものを植え付けます。さらに将来、あなたたちを地獄から除名します。これはあなたたちが知っていいことですが、さらに多くのことをあなたたちのためにすることで、やっと本当の修煉ができ、大法の中で真に修煉を成し遂げられるのです。
時々私は、偽の気功は人を騙していると言いますが、彼らは本当に人を騙しています。彼らはあなたに何をしたのでしょうか? 何もしてくれません。これらのものがなければ、どうやって煉ることができるでしょうか? 煉りだすことができるのでしょうか? しかも、修煉の中であなたを守らなければ命の危険があります。人は業を返さなければならないからです。あなたを守らなければ、あなたが以前、誰かの命を奪ったことがある場合、どうすればよいのでしょう? 現在の人で命を奪ったことがない人などいるのでしょうか? 生々世々の人生で今に至るまでどれほどの業があるのでしょうか? 人の世はまさに危険と悪意に満ちています。人に対して責任を負わなければ人を害していることになります。ですから、彼らは人を騙しているのです。あなたたちは大法を修めているので、このすべてを皆さんのために解決しなければなりません。真に学べば得ることができます。
ここに座っている人たちの中には文化レベルの比較的高い人がいますが、現代の理論に制限されないでください。この『轉法輪』の本は、天目が開いている人が見れば、一つ一つの文字が卍であり、一つ一つの文字が佛であることに気づくはずです。考えてみてください。この法はどれほどの力があるのか、この本にどれほどの佛がいるのでしょうか? しかも、一つ一つの文字に多くの層の佛がいます。この本は宇宙の異なる次元の理を含んでいるからです。修煉の中で次元が向上するたびに、本の中の同じ言葉でも以前読んだ時とは違った意味になっています。あなたがまた新しい認識を持つことで、別の層の意味が語られます。一つ一つの文字には一層一層重なり合う無数の層の佛がいます。もちろん、常人には見えません。ですから私は皆さんに、この本は非常に貴重だと言っています。過去の講義の時には、本を尻の下に敷いていた人もいましたが、あなたはこの法が何なのか、まだ認識できていません。あなたが認識できたとき、このすべてが非常に厳粛なものであると気づくはずです。修煉の中であなたの動いた一念はすべて知られています。どのように念が動いたのかは、その一念が動く前にすでに知られています。人は、人間の思惟の反応が非常に速い過程だと思っていますが、少しだけ速い空間の中では、あなたの思惟は非常にゆっくりとした反応過程であり、あなたが考え終わる前にあちらではすでに知ることができ、あなたの念が動き始めたときにはすぐに分かるのです。
「先生、私の家の誰々が来ていないので、お金を払いますから彼にも法輪をいただくことができますか?」と私に言う人がいます。もちろんこれを言った人を責めたりしていません。その人は、修煉をしていない人に、こういうものを与えてはいけないということを知らないのです。皆さんに教えますが、あなたは何億払っても買えません。これは常人の中にはないものであり、超常のもので、神のものです。ある意味からいうと、その生命はあなたの現在の人間としての生命よりも遥かに貴重なものです。それは高級生命であるので、どうして金銭の価値と比べられるでしょうか? しかし人が修煉をしたいというなら、私は対価を求めずに与えます。しかもこれだけではなく、最後にあなたが圓満成就するまでずっとあなたを見守ります。
弟子:生命が天寿に達しないまま亡くなることはどのように説明できますか? このような人はどうなりますか?
師:今後、皆さんの修煉と関係のないことは質問しないでください。紙銭を燃やすのは意味があるのかということさえ私に聞く人がいますが、これらのことは大法の修煉とは関係なく、解答する時間もありません。天寿に達しないまま死亡した人のその後は哀れなものです。私はこういう道理を話しました。人が誕生する時、その人の一生はすでに神によって按排されています。天寿に達しないまま突然死んだら、その人はきわめて苦痛な境地に立たされます。どのような苦痛な境地でしょうか? 生命には按排があります。あなたの食べるもの、飲むもの、社会での地位、人生の立脚点、これらはすべて按排されています。人がいきなり死んだら、これらを失ってしまい、天寿に達していないので転生もできず、亡くなった後の魂は非常に荒涼とした空間に入ります。そこには何もなく、まるで人が火星に行ったようです。実は、火星には人がいますが、その人たちは別の空間におり、我々に見えたのは、ちょうどこちら側の荒涼とした空間です。もし、いきなりこの境地に立たされると、何もなく飲まず食わずで、非常に苦痛ですが、餓死することはありません。その人はずっとこの空間で待ち続け、人の世のもともとの天寿になってからやっと転生できます。これらがすなわち、孤独にさまよう幽霊といわれる生命です。昔、佛教では済度、済度と言いましたが、現在の人は済度が何か分からなくなりました。このようにして死んだ人だけを済度するのです。普通の人はこちらで死んだらすでに転生しており、済度する必要はありません。昔は済度といえば、これらの生命を済度することを指していたのです。
ついでにある問題、ある社会問題に触れたいと思います。現在多くの国で「安楽死」を提唱する人がいます。皆さんに教えますが、一部の病人が苦痛に耐えられず、死のうとするのは彼ら自身のことですが、病人に「安楽死」を行なった人は殺人をしたことになり、殺人の大きな業を作ります。神もこのようにみています。しかもその死んだ人を最も苦痛な境地に立たせ、さらに苦しい空間に行かせるのです。「安楽死」を求める人自身は何も知らず、そのところに行ってから後悔します。生きて苦痛を味わったほうがまだましなのです。人にはなぜ苦痛があるのでしょうか? 人はこの世で生きているうちに業を造ります。業力が大きな人もいれば、小さな人もいます。死ぬ直前に苦しみを味わう人もおり、苦しみの中で生涯にわたり造った多くの業を返すことで、来世には良い生活が得られます。造った業力を死の直前にすべて返せば、転生後には業力がなくなるからです。しかし苦痛を味わいたくなく、業も返したくないのであれば、来世に生まれる時、病んでいる身体をもって生まれるか、甚だしきに至っては身体障害者として生まれ、あるいは長生きしない可能性があります。人はこのことが分からず、「現実」のものだけを信じています。人間は現在の科学の虚像にあまりにも厳しく閉じ込められているため、「安楽死」などというものを考え出したのです。実は少しも安楽ではありません。
弟子:修煉者は、依然として常人社会の仕事や勉学に励み、向上を図るべきでしょうか?
師:そうすべきです。私は先ほどすでにこの問題について話しました。なぜでしょうか? この法を伝える時、私はすでにこの問題を考慮しました。法を学ぶ人はとても多く、相当多くなります。この法は素晴らしく、人間に修煉させる宇宙の法であるため、将来、人類社会全体に普及することになります。人が多くなれば非常に大きな社会問題をもたらします。皆が出家してしまうと、この人類社会はなくなるのではないでしょうか? それではいけません。私はあなたたちに常人社会の中で修煉させます。修煉する者が最大限に常人社会に符合して修煉することができるので、この問題を解決しました。同時に、真に人間自身に法を得させることができます。
あなたはあらゆる常人の通常の仕事をすることができます。修煉者はあらゆる生活環境の中にいて、いかなる仕事をしても良い人になることができます。修煉者として、あなたはどこにいても良い人でなければなりません。修煉者として、常人社会でしっかりできなければ、それは必ず自分の責任で、自分を修煉者として厳格に要求していないためです。経営者に雇われているのに、しっかり仕事ができず、学生なのに、宿題をせず授業中も話を聞かないのであれば、あなたが良い人だといえるのでしょうか? 良い人はいかなる環境の中でも良い人でなければなりません。あなたが学生ならばしっかり勉強するべきで、あなたが会社員ならば仕事をきちんとこなすべきです。あなたたちは皆、考えを持っているのですから、自分と社会や、人との関係を正してください。普段から良い行いを心がければ、トラブルも小さくなり、少なくなるでしょう。しかし、トラブルはやはり存在します。
皆さんの向上のためにいくらかの試練を与えます。修煉の中でトラブルはしばしば突然やってくるのですが、あなたは修煉しているので、そのトラブルは偶然ではありません。あなたが修煉したいので、私は修煉者を向上させるためにあなたの修煉の道、そして生活を新たに按排します。そのためぶつかるトラブルは、しばしば突然出現し、偶然のように見え、表面上では人と人との間のトラブルと変わりません。決して、神が来てあなたにトラブルをもたらすようなことは起こりません。表面上ではすべて人があなたにもたらしたトラブルであり、これで初めて、あなたの向上に役に立ちます。それではどのようにすれば、これらの問題をうまく処理できるのでしょうか? 普段から慈悲の心を保ち、トラブルに遭遇したら自分を見てください。私は先日、皆さんにこう言いました。「自分の敵を愛することができなければ、あなたは佛にはなれません。」神あるいは修煉中の人がどうして常人を敵とみなすことができるのでしょうか? どうして敵があるのでしょうか? もちろん皆さんは、今はまだできませんが、徐々にできるようになり、最終的にはできるようにならなければなりません。あなたの思っている敵は常人の中の人です。人間はどうして神の敵になれるのでしょうか? 神の敵になる資格があるのでしょうか?
弟子:先生は、人は生まれてから死ぬまで神に按排されているとおっしゃいましたが、堕胎は胎児の生命に対してどのような影響があるのでしょうか?
師:すでに修煉を始めた人としては、以前に何かをしたことがあっても、まずそれを放下してください。過去に無知の中でやったことは仕方ありません。何も考えずに、ただ修煉のことを考えてください。修煉の中で絶えず向上することが最優先です。あなたが真の修煉者であるとき、私はどんなことでもあなたのために解決します。また、私はそれが解決できます。しかし、間違いだと知った後に、間違っていると知りながら同じ間違いをすると、それは修煉者に対する要求に従わず、修煉者ではなくなります。
堕胎に関して、皆さんに私に見えるある光景を話したいと思います。病院では、多くの病院の入り口と部屋の中に、多くの赤ん坊の霊体が浮かんでいて、四肢が不完全なのもいます。これらの小さな霊体は行き場がなく、とても哀れで、母親といつか親縁関係があったものもいます。これからは注意してください。あなたが修煉するので、私は何でもあなたのために解決できます。
弟子:先生、なぜ功法は輔導員によって教えられているのでしょうか? ずれが生じる心配はないのでしょうか?
師:この問題はこういうことです。私は輔導員に功を教えるとき『法輪功』という本の中で説明したように教えることを要求しています。動作は、一人一人が同じ鋳型からとったようにまったく同じになることはありえません。少しだけ違っていても構いません。しかしできるだけ基準の動作にして、できるだけ要領に従って行なってください。法輪功の煉功はほかの功法の練功とは違います。ほかの功法は練功が終わると止まり、功を収めなければなりません。あなたたちは違います。法輪功は法が人を煉るので、二十四時間功に煉られています。なぜそのようなことができるのでしょうか? それは、私があなたに植えつけた機制が自動的に働くからです。煉功は何のためかというと、私が植えつけたそれらの機制を強化するためです。皆さん覚えておいてください。あなたたちの煉功は、私があなたたちに植えつけたそれらの機制を強化するためで、真にあなたを煉るのはそれらの機制です。機制が功を動かし、二十四時間止まらず人を煉り続けます。大法の煉功は、それらの機制によって導かれるため、動作が少し違っていても影響はありません。ただし、できる限り正確に行ない、動作が規範に合うように心掛けてください。
弟子:多くの発展が遅れている地域では、功を教えるビデオを見ることができず、動作は一人目が二人目に、二人目が三人目にというように伝えています。そのため、私たちの煉功場では動作に違いが生じています。
師:煉功する人は益々増えていき、学習者は互いに往来するようになるので、これらはすべて素早く解決されます。多くの人が法を得ることは決して容易ではないことを、私は知っています。そして皆さんも法が良いと感じ、ほかの人にこの法を伝えたいと思い、黙々と多くのことをしてきたことを私は知っています。これは功徳無量のことです。
弟子:私には二歳の娘と二か月の息子がいます。今日はもう少しで彼らをつれて来るところでした。どのような方法で、いつ頃になれば彼らに学法や煉功にできるだけ早く触れさせることができるでしょうか?
師:中国大陸では、三歳や四歳の子供の煉功者もいます。三歳の子供は比較的少ないのですが、四歳の子供は非常に多く、一般的です。あなたも彼が子供だから、理解できないと思わないでください。あなたに教えますが、彼は先天の本性が良ければ、大人よりもよく理解できるかもしれないのです。人は皆子供の受け入れ能力が比較的高いといいますが、なぜ高いのでしょうか? それは、子供の先天の智慧がまだ完全に覆い隠されていないからで、そのため、ときに子供はとても明白です。もしも、その子供が何かの使命を持ってこの世に来たのなら、その
慧根はさらに良いでしょう。
弟子:天目の問題はどのように理解すればよいでしょうか? 天目が異なる次元で開くにつれて、煉功では宇宙の真相についてさらに深い認識が得られますか? それでは佛の宇宙の真相に対する認識はどのようなものでしょうか?
師:皆さんに教えますが、人が永遠に宇宙の真相を知ることができないのは、人が人間の次元にいるからです。佛が宇宙を認識できるのは、佛の次元の境地が決めるものです。低い次元の神はさらに高い次元の宇宙の状況を認識できません。つまり修煉者が異なる次元で悟りを開き、あるいは異なる次元の覚者が見えたのは、彼らのいる次元での宇宙の真相であり、彼ら以上のものは見えないのです。
そのほか、あなたたちの修煉の過程では、すべての人の天目が開くわけではありません。佛のように何でもはっきりと見えるのであれば、修めることができなくなるので、非常にゆっくりしたものになります。天目が本当に開くと、見えるほかの空間はこの人間の空間よりもはっきりとして真実なのです。立体感と物体に対する感覚も人を見るよりはっきりして、真実なのです。一般的には、私は見える学習者にほかの空間の状況の一部しか見せることができません。特殊な状況でない限り、広い範囲が見える人が見た状況は、たいていぼんやりしているか、あるいは低い次元の状況しかはっきり見えません。なぜでしょうか? 人々にすべてをはっきり見せれば、きっと皆が修煉を始め、しかも確固として修煉を続けるでしょう。それでは謎はすでに解かれてしまい、悟りも存在しなくなり、もはや修煉とは言えなくなるのです。人は迷いの中でしか修煉できず、迷いの中でしか悟ることができず、このように苦を嘗めなければなりません。すべてがはっきりと見えるなら、いくら苦を嘗めても不満を訴えることはありません。佛の次元ではなぜ向上するのが難しいのでしょうか? あらゆる真相が見えているのでは、どのようにして向上できるのでしょうか? 嘗める苦がないので、非常にゆっくりとしか向上できません。人は真相が見えないからこそ修めることができるのです。見えないことも苦であり、人の一切は苦なのです。
「先生、私は煉功をしているのに、なぜまだ病気が治らないのですか」と聞く人がいますが、あなたは病気を治しに来たのですか、それとも修煉しに来たのですか? 修煉しに来たのなら、病気のことは何も考えないでください。完全にこれらのことを考えなくなり、執着がなくなって初めて良くなります。あなたはまだ元々の常人の心を持っており、自分を煉功者だとみなしていません。根本的に人間の執着を取り除けばどうなるか見てみてください。眠れない人がいますが、眠れないときは、ちょうど煉功できるのではないでしょうか? そうして眠れるかどうかみてください。皆さんに教えますが、ただこの一念の差ですが、人間と神の違いはこの一念にあるのです。放下できれば修煉者で、放下できなければただの人間なのです。
弟子:現在、専業で修煉している人はいるのでしょうか? いるのなら、私は専業で修煉する弟子になれるでしょうか?
師:法が伝えだされて、ほとんどの人はこのように修めています。もちろん尼僧や和尚で大法を修めている人もいます。大法の修煉は形式を重視しません。天上の佛、道、神は皆このように見ています。佛は常人の中の形式を重視しておらず、人の心を修めて取り除くことを重視します。どれほど多く廟を建てたとしても、毎日佛像に向かって叩頭しても、外に出ると自分勝手に振舞うのであれば、これは修煉ではありません。一途に自分を修煉するなら、佛はこれを見て嬉しくなります。形式にこだわらず、真に修めるのであれば師父は面倒を見ます。修煉はただ人のこの心を修めて取り除くのです。(拍手) 実は、この複雑な人の群れから離れると、かえって修煉が遅くなります。もちろん、あなたが出家して修煉したくても、私たちは現在まだこの条件が整っていません。
弟子:人の身体が高エネルギー物質に転化した後に食べる食物はどのような影響を与えるのでしょうか?
師:食べた物は修煉中の機制によって転化されます。修煉は普段どおりに行なってください。
弟子:アメリカで生まれた中国人で英語しか話せない人は、修煉して圓満することができるでしょうか?
師:現在多くの白人の弟子がいて、どの言語を話すかは修煉に影響しません。私はスウェーデンで白人の弟子たちに講義をしましたが、彼らはとてもよく理解できて、修煉の中で向上するのもとても速いのです。華人は古い歴史があり、非常に豊かな文化を持っていますが、華人の特徴はとても内向的で、心の中に抱えていることが多いのです。道理の上で華人に納得させるには、その理を深く話さなければなりませんが、白人は違います。彼らは外向的で、話をするときも、はっきりと話します。怒るときも顔に表れて、喜ぶときも顔に表れ、心の中に隠すことはなく、すべて表面に表れます。彼らの直感は華人より強く、あまり深い道理を必要とせず、話せばすぐに分かります。心理的障碍があまりないので、修煉がとても速く進みます。
中国語が分からなくても同様に修煉できます。しかし、英語では私の話した表面の意味しか翻訳できず、とても正確に表面上の意味を訳すことはできません。しかし、高い次元の内涵に影響することはありません。将来の人が法を学ぶ時、表面の人間のこの次元のものがとても重要になります。そのため、将来の人は中国語が分からなければ、かなり難しくなるでしょう。
弟子:異なる人種には異なる天国がありますが、なぜアフリカの黒人にはないのでしょうか?
師:黒人も彼らを造った神がいますが、彼らはすでに忘れてしまいました。
弟子:すべての宗教には天国がありますか?
師:天国は正教にしかありません。邪教には天国はありません。それに末法の時期に、実際、真の神が司る宗教はなくなりました。過去に神が人に守るようにと教えたことを、人々はもう守らなくなり、宗教の中にも率先して良くないことをする人がいます。宗教の身分を利用して金儲けをし、政治屋をしている人や、率先して社会を堕落させる人もいます。彼ら自身も神を信じなくなり、彼ら自身も修煉できなくなりました。出家した人に「あなたは私を圓満成就させることができますか。そしてあなたは圓満成就できますか?」と聞いてみてください。私は、出家して六、七十年経つ人に聞いたことがありますが、彼は極楽世界が存在すると言い切れませんでした。そのようでは、どのようにして修めることができるのでしょうか? 天国の門はすでに閉ざされています。滅茶苦茶なものはもともと神が伝えたものではなく、ましてや天国などどは到底言えません。
弟子:夢の中で先生が私たちに教えていて、私たちと話をしていました。この夢をどう解釈すればよいでしょうか?
師:根基が比較的いい人たちは確かに接触できます。子供は割合多いのです。一般的な情況で坐禅して入定した時に私を見たのなら、ほとんどはあなたに話しかけることはありません。話をしても諭すだけです。先生が夢の中で功を教えてくれたという人がいますが、この点については警戒してください。あなたに何の功を教えているのかを見なければいけません。この五式の功法以外であれば、それはあなたを邪魔するためのものに違いありません。話したことが私の伝える法理でなければ、それは絶対に私ではありません。偽者です。偽者に遭ったときはそれを追い払ってください。私は法輪大法を修煉するので、あなたのものはいらないと言って、それでも立ち去らないときは私の名前を呼んでください。
弟子:苦を嘗めると業を取り除くことができますが、病気に耐え忍んでも業を取り除くことができますか?
師:病気に耐える時、人が苦痛に耐える時、すべて業が取り除かれているのです。病を耐え忍ぶこともまた、業を消すことです。先ほど、人が生涯、全く病気にかからなければ、亡くなった後に必ず地獄に落ちると言いました。その人は一生、業を造るばかりで、返していないからなのです。幸福は常人が求めるもので、修煉者は少し苦を嘗めなければ、以前造った業力を返すことができません。同時に、思想の上での向上がなければ、修煉しているとは言えません。
弟子:いつになったら専修の弟子が現れるのですか?
師:私は皆さんに専修してはいけないとは言っていません。廟の和尚でも大法の修煉を始めた人もいます。彼らはすでに出家しているので、俗に還ることができません。そのため一定の時期には、こういう状況が存在します。しかしほかの出家していない人は家で修めてください。私があなたたちに残したのは常人社会の中で修煉する道です。
弟子:先生が皆さんの天目を開いてくださるよう希望します。
師:これは話さなくてもいいことです。あなたの修煉の過程で、本を読む過程で、すでにあなたのために行なっています。修煉者が必要とするすべて、天目を含めて全部開いてあげます。しかしすべての人が見えるようにすることはありません。
弟子:私の夫は亡くなり、私は彼のことがとても恋しくてなりません。この心をどうすれば放下できるのでしょうか?
師:あなたが「恋しくてたまらない」のは常人の心で、修煉するにはそれを放下しなければなりません。皆さんに簡単な道理の例をあげましょう。人は皆、常人の肉親の情に執着します。あなたは常人の中で何回生まれ変わったのか知っていますか? あなたはすでにどれほど多くの父母、兄弟、妻、子供そして夫がいたのか知っていますか? あなたが常人の中で生まれ変わる時、毎回の人生のすべての身内の人たちに対して、あなたはかつて、今と同じような想いを持っていました。それほど多いのに、あなたは手に負えるでしょうか? 誰があなたの真の身内でしょうか? あなたの生命を作ったその場所こそがあなたの真の身内で、そこではあなたが帰るのを待っているのですが、あなたはここで迷ってしまい、これらの一時的なものに執着してしまっています。
皆さんが一つの家庭に転生するのも、この世にやって来るのも、旅館に泊まるようなものです。ただ一晩泊まって、翌日には別れてしまい、来世には誰が誰であるかは互いに分からなくなってしまいます。あなたの周囲にもあなたがかつて愛した夫やほかの身内の人がいますが、あなたは覚えていますか? その人たちはあなたを覚えていますか? 私が話したのは法理です。皆さんに親孝行をするなと言っているのではなく、この心を放下するように言っているのです。いかなる心に引きずられても修煉はできません。それはあなたを執拗に引きずってあなたを修煉させず、成佛させません。この角度からみると、それはあなたを邪魔しているのではないでしょうか? あなたが成佛するのを妨げているのではないでしょうか? あなたは自分では、まだどういうことなのか分かっていません。亡き人はすでに過ぎ去ったのに、いまだにあなたに付き纏っているのなら、あなたはなおさらそれを放下すべきです。私は皆さんに道理を話しているのであって、皆さんに分かってもらいたいのです。修煉しない常人であっても、常人の中でいつも亡き人のために嘆き苦しんでいるなら、幸福な生活を送ることはできません。人生は非常に短く、佛の世界で常人社会を見ると、さらに短いものです。二人の佛が話をしていると、ふと見るとあなたが生まれ、さらに一言二言交わしてもう一度見ると、あなたはすでに天寿を全うして亡くなっています。こんなにも速いのです。人は人間のこの時間の場にいるため、とてもゆっくり感じるのです。
弟子:時には雑念が現れます。良くないものだと知っているのですが、なかなか排除することができません。これは魔なのでしょうか?
師:その雑念が良くないものだと分かっているなら、できるだけ拒絶してください。皆さんに教えますが、人はこの世に生きている時、自分で考えて自分で生きているのではないときがよくあります。今日の人を見てください。どの国の人でも、一日中、慌ただしく、いったいどのように生きているのでしょうか? 皆さんに教えますが、半分しか自分で生きていない人もいれば、さらにはすべてを自分で生きていない人もいます。
特に、現代の人は自分がどのように生きているのか知っているでしょうか? 人は一生の中で子供から大人になる過程で、生活の中で多くの経験をしてきましたが、これらの経験により人の思想観念が形成されます。人がトラブルに遭ったとき、こうすればうまく処理できると考え、このように月日の経つうちに固定観念が形成されます。多くのことを、あなたは非常にうまく処理できたと思いますが、実はあなた自身がいなくなり、あなた自身は眠りについてしまったのです。常人社会で生活しているあなたは、肉身がこれらの後天に形成された観念により主宰され、これをしよう、あれをしようと、毎日ぼんやりしながら生活しています。しかもこれらの観念はすべてあなたが損害を蒙らないように自己を防衛するために生じたものです。あなたが損害を蒙らなければ業を返すことができず、あなたは得るべきではない利益を得ることになるので、あなたは他人を傷つけ、絶えず業を造っています。これらの業力もまた生きており、後天的な観念と業力が人の大脳に影響を与えて思想業力を形成します。あなたが修煉するときには、それを取り除かなければなりません。人が修煉しているので、それを修めてはいけません。それを修めて、あなた自身を修めないのであれば、あなたも納得がいかないでしょうし、もちろん私も許しません。
私はあなたを佛に成就させ、修煉させようとしています。修煉の中で、あなたは後天の観念を取り除き、あなたに取って代わっている思想業力を取り除かなければなりません。皆さん考えてみてください。このようなものを取り除こうとすると、それらも生きているため、取り除かれることを承知しません。それらがあなたの脳にあるため、あなたの思想を動揺させ、不安定にし、法を学ばせないように、法を信じさせないようにと、あなたにあれこれさせます。さらには、自覚のないまま悪事を働いてしまうことさえあります。あなたが以前修煉をしていなかった時に、人を罵ったことがあり、悪いことを考えたことがあったため、これらの業力が形成されたのです。そのため、思想業はすべてあなたの思想に反映させ、人を罵る言葉や法を信じないように、さらには私を罵るようにさせるのです。私はあなたたちの過ちを気にしません。それは、あなたが私を罵っているのではないからです。さもなければ、あなたの罪はとても大きくなります。あなたの思想業力が私を罵っているのですが、修煉の中でそれを排除しなければ、あなたが罵っていることになります。ですから、それを排除し、拒絶しさえすれば、自分が罵っているのではなく、業力と魔が作用していると分かります。私たちは一緒にそれを取り除き、本来の自分を取り戻します。今、多くの人はこの世で自分自身として生きているのではなく、それらの意識や後天的に形成された観念のために生きているのです。
弟子:天象とは何でしょうか? どれほど高い次元の修煉者になれば天象の暗示を受けないようになりますか?
師:天象は人に対して暗示することはありません。現在、人間を操るようなことをしているのは、人類が悪くなったこの時期の、霊気を得た動物だけです。神は天上に人類のためにとても大きな円盤を作り、それが回っています。人類社会のどの時期にどのような状態が現れるのか、円盤の上に定めています。一定の時期が回ってきたら、人類社会に知らず知らずのうちにある状態が現れます。これがすなわち、天象の変化です。
弟子:「輪廻」の基準はなんでしょうか?
師:輪廻にも基準があるのでしょうか? 一つの生命が輪廻する際、今生は人間でも来世は動物、あるいは植物に転生するかもしれません。いずれにしても、何にでも転生する可能性があります。そして何に転生するかは、人の業力の大小によって決まるのです。
弟子:宿命通は未来を予知できますか?
師:宿命通は未来を予知できるのでしょうか? 宿命通は、人の一生や数世代、さらにはそれ以上のことまで知ることができます。自分がどこから来たのかを知っている人もいれば、自分の将来や他人のことまで分かることもあります。これが宿命通です。
弟子:佛と菩薩はどれほど長く過去と未来を知ることができますか?
師:漏れがなくなって、初めて佛、菩薩になることができ、漏れがなければ何でも知ることができます。これらを知識として追求しないでください。私もこれらの問題に解答するわけにはいきません。「佛はどのように生活しているのですか?」と私によく聞く人がいますが、人間は絶対に佛がどのように生活しているのかを知ることはできません。佛の生活ぶりを知りたければ、修めて佛になることです。極楽世界や法輪世界、またほかの世界を見た人がいますが、それはその人のいる次元の中での現れです。その真相を完全に見たいのであれば、佛の基準に到達しなければ、その真相を見ることはできません。この法のように、この次元で見ればこの次元の法理であり、別の次元で見るとまたその次元の法理になります。低い次元に高い次元の真相を顕してはならないのは、宇宙の理なのです。
弟子:拝んだことによって生じた偽の佛たちは将来どうなるのでしょうか?
師:彼らの善悪によって決まります。社会と宇宙に乱れをもたらすものはすべて取り除かなければなりません。もちろん、良い者は機会を与えて転生させます。すべてに按排があります。
弟子:心性の修煉には系統的な方法がありますか?
師:あなたたちに教えたこの法が最も系統的なもので、これより系統的なものはありません。『轉法輪』を読んでください。
弟子:「刀を下ろせば、直ちに佛になれる」と佛教で話されていますが、法輪功ではどうでしょうか?
師:これは釈迦牟尼が説いたものではなく、後の人が言った言葉です。ですから、佛教は末法の時期には修煉が難しくなっているのです。佛の話ではないものを佛の話としてしまい、現代の人々は何がどうであるか分からなくなりました。これは佛理ではありません。どれほど人を殺しても、刀を棄てれば佛になれる、このようなことはあるわけがありません。良い人でも修めなければならないのです。この道理ではありませんか? もちろん、この中の意味に、今後は悪事をせず修行をするという意味もあるかもしれませんが、佛とはあまりにもかけ離れています。
弟子:「身体が大きくなる」について、さらに詳しく解釈していただけますか?
師:修煉者の考え、身体の容量、体積はすべて大きくなります。そのため、站樁をするときに、自分がとても大きくなったと感じることがあるのです。また、とても小さくなったと感じる人もいます。良く修煉できた他の空間の身体は、大きくなったり小さくなったりできるからです。修煉者の身体は確かに大きくなります。さもなければ、高い次元での宇宙の真相に対する認識に耐えられないからです。修煉の中で身体は一つの空間を突破するたびに大きくなります。ここに座っている私の肉身はあなたたちが見ているこの大きさですが、私のあちらの身体は一つ一つ徐々に大きくなります。その大きさは、この中にいる天目が一番良く開いている人でも、私の足の指の下側しか見えず、上側を見ることはできないほどです。これはまだ一番大きいものではありません。もちろん、これは誇示しているのではありません。師と弟子の間ではいい加減なことは話しません。皆さんに教えますが、修煉者の身体は確かに体積が大きくなっています。インドのヨガの一枚の絵画を覚えていますが、その絵画には、バガヴァンが彼の弟子に対して、「見てください。すべての神は私の身体の中にいます」と言っている場面が描かれています。絵画の中の衆神は皆彼の身体の中にいます。修煉ですから、目的は神になることです。神の大小は次元の大小であり、果位の高低であり、それによって神の身体が果位の次元に符合するのです。
弟子:今回アメリカに来られて、九日間の講習会を開かれる予定はありますか?
師:いいえ、この法はすでに系統的に話しました。『轉法輪』を出版して以来、私は系統的に話すことをしなくなりました。さらに話すと、一字も変わらず『轉法輪』と同じように話すことはありえないからです。私の講義には原稿がありません。私は学習者の異なる状況に応じて話し、同じ問題でも違う角度から話すことがあるため、毎回話すことが違います。私が再び講習会を開いて系統的に法を話すと、学習者が『轉法輪』に従って修煉することの妨げになります。私は同じ問題について話すにつれて、より高いレベルのことを話すようになっていることに気づきました。それは、学習者にますます深く分かってほしいからです。(拍手) そのため、話したことは学習者の修煉の妨げになります。この法はすでに印刷されており、さらに系統的に講義することはできません。しかし皆さんはただ『轉法輪』に従って修めれば、同じことです。このように修煉中の個別の問題について皆さんに答えるのは構いません。
弟子:世界中でこんなに多くの人がいて、先生はどうやって誰が修煉しているのか分かるのでしょうか?
師:修煉は高い境地と低い境地では思想の認識が異なり、あなたの人の考えで想像することとは違います。人は修煉の過程で一定の境地に達すると法身が現れます。さらには無数の法身が現れることもあります。法身は主体(主尊ともいう)を手伝って弟子の世話、保護など多くの具体的なことをします。法身は私の智慧の顕れであり、このような智慧は神の形もあり、はっきり言うとそれは私自身なのです。ですから、私の法身は私自身の全体の形象と考えをもっており、どんなことも行なうことができ、主体とは区別がありません。しかしその次元以下では誰もこの内在の連繋を見ることはできません。その次元を超えて初めて見えるようになります。具体的なことを行なう中では、私自身が行なうのと同じように行ないます。それは私の考えが形となって現れたものだからです。
弟子:「求めずとも自ら得る」と「留まることなくその心が生ずる」とはどういうことですか?
師:大法の修煉の中で佛教の経書を解釈するのは、あまり適していないと思います。小さいことから言えば、釈迦牟尼が話したのは彼の一門のもので、ここでは私の法門の話です。これは不二法門の問題です。大きく言えば、すべて大法がもとになっており、あなたが知らない複雑な要素も多くあります。そのため、宗教の中の言葉や概念を私は全く解釈したくありません。ときに何かのついでに、それを少し話したり例を挙げたりするのですが、それは私の法を話しています。皆さんも、頭の中に宗教のものがあれば、法輪大法を修め始めたからには、早くそれらを放下し、自分をきれいに洗ってください。そうしなければ深刻にあなたの邪魔をし、あなたは佛教の中のもので、私の話した法を評価するようになり、修煉できなくなります。佛教の中でも不二法門を話していますが、現在は末法の法の乱れた時期なので、皆さん注意してください。
不二法門に言及しましたが、実は宗教の中でどれほどの人が真にその意味が分かっているでしょうか? 宗教の中では何でも修める人がいます。禅宗を修めながら密宗を修め、どんな経書も読み、浄土を修めているのに禅宗のものを取り入れる和尚もいます。ある門を修めれば、その門の経だけを読むべきです。経はすべて釈迦牟尼の話したことではありません。『華厳経』を読んで修めれば華厳世界へ行き、阿弥陀佛の経を読めば極楽世界へ行きます。後の人は経書がすべて釈迦牟尼のものだと思い、そのためいったん混ぜ入れて修めると、どの佛もその人の面倒を見なくなります。現代の佛を信じる人は皆このような考えがあります。どの佛もみんな佛だから、誰を拝んでもいいのではないか? どれも皆佛の書だから、どれを読んでもいいのではないか? ということです。これは人の考えです。
なぜ『轉法輪』を読んで修煉すれば法輪世界へ行くことができ、修煉の中で法輪などこの一門で得るべきものを得ることができるのか、皆さん知っていますか? 宗教の経書も同じで、その門を修めれば、その門のものを得て、その法門の神はあなたの身体にその門のものを植え付けます。それなのにあなたはほかの門の書も読み、そのほかの門もあなたにその門のものを植え付け、どの門のものも植え付けられたら、あなたの身体は乱れてしまい、どのように修煉することができるのでしょうか? たとえば、テレビの中に洗濯機の一つの部品を入れると、テレビは機能しなくなります。人が考えるように簡単で容易なことではありません。
修煉は非常に厳粛で、複雑な功と生命昇華の演化の過程です。それは人類の最も精密な計器よりも精密で、そのため修煉のものは混ぜてはならず、混ざることもありません。人がいったんこのようなことをすると、あなたがこれも修め、あれも修めているのを佛が見ると、皆、自分の一門のものをあなたに何も与えなくなります。これも修煉者の心性の問題です。如来佛はいくつもの世を経て、苦しい修煉を重ね、彼自身のものを作りだし、彼の世界を構成したのです。彼の世界もすべて彼の修煉の要素で構成されています。人間であるあなたが、それを思うまま適当に変えられるでしょうか? 同時に二つの法門を修めることは、あなたが二つの佛の法を破壊しようとしていることに等しく、同時に三つの法門を修めることは、三つの佛の法を破壊していることになります。これは罪ではないでしょうか? ある人は「私は知らなかった」と言うかもしれませんが、まさにその知らないことゆえに、佛はあなたに何も与えず、この罪を犯さないようにしているのです。これが不二法門の根本的な理由です。人間はこれを知らず、このように学べば広く多くのことを知ることができると考えていますが、これは執着なのです。
ある門を修めれば、その門だけを修めなければなりません。禅宗なら禅宗、浄土なら浄土、華厳なら華厳、天台なら天台、密宗なら密宗だけを修めなければなりません。しかも密宗の中でも、混ぜて修めてはいけません。紅教なら紅教、白教なら白教というように、決して混ぜてはいけません。修煉は最も厳粛で、最も厳粛なことです。人類にはこれより厳粛なことはありません。それは最も偉大で、そのため厳粛に対処しなければなりません。もちろん、私はあなたにどうしても法輪功を学ばなければならないと言っているのではありません。あなたが佛教の中のどれかの門で圓満成就できると思うなら、それを学んでください。しかし私があなたにはっきり説明しなければ、あなたに責任を負っていないことになります。あなたは縁があってここに座っているので、私はあなたに教えます。末法の時期になり、宗教で修行している出家者でも修煉が非常に難しくなっています。出家者に「あなたは圓満できますか?」と尋ねてみてください。私は何でも知っていますが、世間の出家者で、全世界を含めて、世間法を超えて初果羅漢に達することができるのはわずか数人だけです。しかも一つの足は門の中にあり、もう一つは門の外にあります。しかもこれは副元神の修煉です。実は、彼らも皆、佛が来るのを待っています。あなたは彼らに済度してほしいと頼みますが、どこに済度してくれるのでしょうか? 彼は羅漢であり、彼自身も佛の世界に行くために修めているだけです。さらに、佛が彼を受け入れるかどうかは佛の判断であり、彼はあなたをどこに済度できるのでしょうか?
弟子:先生は高い次元では完全に自動的に煉功できるとおっしゃいましたが?
師:中国で気功が現れたばかりの頃は、気功では圓満成就することができないと言う人がいましたが、これは当時、伝えられていた気功がすべて病気治療と健康保持の次元のものだったからです。私は先ほどあることを言いました。実は気功は私が法輪大法を伝えるための準備段階のものであり、もし最初に気功が伝えられていなければ、私が今日大法を伝えることも難しかったのです。私は最も厳しい社会でこれを伝えだすことができたので、将来歴史上、どの社会で伝えても問題はないはずです。
気功は有為の法で、「有為の法は
夢幻泡影のようなもので圓満成就できない」と釈迦牟尼が話したという人がいます。実はこう言う人は自分でも有為が何なのか分かっていません。彼らは煉功の動作そのものが有為だといいますが、道家の功の多くは動作があるにもかかわらず、修めればかなり高い次元の大道になることができます。先天の大道を修めた多くの人が、普通の神佛よりも高い次元に達しており、動作があると有為ということではありません。密宗も手印を結び、漢民族地域の和尚も異なる手印を結び、結跏趺坐や半跏趺坐をします。これらは動作ではないでしょうか? 有為や無為は動作の多少によって決められるのでしょうか? 「有為」とはそういう意味ではありません。「有為」とは人が修煉の中で執着を放下せず、人間の形式にこだわり、方法や技能や法術を探し求めて、それによって向上できると思い、執着心を取り除くことを根本とせず、小手先の技を求めて有為なことをすることなのです。出家した人が金儲けをしたり、多くの廟を建てたり、社会のために奉仕をしたり、政治に参与したりする、このようなことこそ有為なのです。これらのために修行することこそ、まさに夢幻のような泡影であり、自分の修行を見失ったのです。これで圓満成就できるのでしょうか? 佛のためにどれほど多くの廟を建てたからといって、佛の次元に上げてもらえることはありません。あなたのその常人の心を取り除かなければ、神の境地に上がれたとしても、あなた自身にはそこに留まるだけの勇気はありません。神聖で厳粛で
純浄無比な神佛と比べ、あなたは恥じ入り、穴があったら入りたいと思うことでしょう。あなたの思想境地とあまりにもかけ離れているため、自分がここにいるべきではないと気づき、自分自身で降りることでしょう。動作は有為ではなく、人の執着こそが真の有為なのです。
私は、修煉の中での思想活動も問題が生じやすいため、できるだけ念を動かさず、有為の行為を避けるべきだと話しました。いかなる物体も他の空間では生きており、生命があります。私があなたに植え付けた修煉の機制を、あなたは煉功の中で強化しており、それがある程度強化されると、自動的に動き出します。将来煉功するときには、毎回九回繰り返してそれをさらに強化し、最終的には、回数を数えなくても、ただ煉功すれば、九回目を終えると自分で法輪を押し回して、自動的に結印します。回数を数えなくてもすむようになります。
弟子:すべての人は自分が世間法を突破したと知ることができるでしょうか?
師:一部の人は根基が非常に良いので、彼らが先天の場所に戻れるように、何も彼らに教えません。少しでも教えると、彼らの道を壊し、彼らが元の位置に戻れなくなります。そのため、個人の異なる状況によって決めなければなりません。ときには知ることができることもあり、ごく一部の人は知ることができます。
弟子:将来、寺院で修煉する専修弟子も常人の中で行脚するとおっしゃいましたが、この「将来」とは、今回の人類に対してなのか、それともこの前でしょうか?
師:出家した人は常人とは異なります。私は彼らがほかの大法弟子と同様に、さらに高い果位に達し、さらに大きな威徳を成就するための環境を彼らに与えます。
弟子:法身が保護してくれているかどうか、身体に法輪があるかどうか、どうすれば分かりますか?
師:法輪は、敏感な人は感じることができ、そうでない人は感じません。誰もが感じられるのではなく、法輪が回るのを感じられる人でも、その法輪がその人の身体で安定すると容易には感じられなくなります。心臓の拍動のように、手で触れなければ心臓が動いているとは感じません。それがあなたの身体の一部になると、あなたはそれを感じなくなります。しかし初めから何も感じない人もいますが、これは身体が敏感でないからで、別に問題ありません。人の身体の状況は非常に複雑で、皆がそれぞれ違います。
弟子:もしも若い人が圓満成就してすぐに天国に行ったならば、彼は両親や子供に対して責任を果たせなくなり、それでは周りの人に困難を残してしまうのではないでしょうか?
師:あなたはまだ圓満成就していないため、そこまで高い考えを持たず、常人の考えでこの問題を見ています。人があのような境地に達したとき、あらゆるものに対する認識が変わってきます。また、修煉中の威徳によって、周囲の状況も変化します。実は、人にはそれぞれ自分の運命があり、誰もほかの人の運命を左右することはできません。どうしても自分の後世の人を幸せにしたいという人がいますが、後世の人に福がなければ、どれほどの財産を残しても、すべて無駄に使われてしまい、あるいは火事で焼きつくされたり、紛失したり、盗まれたりしてしまいます。福があれば、その財産は継承することができます。人にはそれぞれ運命があり、誰も他人を左右することはできません。あなたの身内も、この世であなたの身内であっても、来世では他人の身内になるかもしれず、前世でも他人の身内だったかもしれません。人にはそれぞれの運命があり、他人にこうしてほしいと思っても、どうにもなりません。人の生命は人が按排するものではなく、神によって按排されているからです。彼らに苦痛を残すかどうかという問題でもなく、これらのことはすでに按排されているのです。これらのことはあなたが考えるようなものではありません。その境地にいなければ、問題を見るときもすべて常人の考え方になってしまいます。実際に修煉して神佛になるということは、なんという威徳でしょうか。その後のことは修煉の過程ですでに按排されているのです。
弟子:煉功の際に頭が揺れます。
師:これはすべて良い現象です。脈を通す際に、エネルギーの流れで頭部が押されて揺れることがあります。実は、煉功の中で現れる現象はとても多く、何万種類もあります。どんな状態が現れても正しくそれに対処してください。修煉の道ではあらゆるところに修煉者の悟性に対する試練があります。功の中には多くの成分があり、人の表面で最も敏感なのは電気です。最初の頃、功の作用でどこかが動くだけで身体の具合が悪いと感じることもあります。また、良いものを煉り出したにもかかわらず、病気ではないかと疑ったり、どうして具合が悪くなったのかと思ったりするようでは、どうやって修煉できるでしょうか? あなたは修煉者なので、それを良い現象とみなしてください。そして、それは本当に良い現象なのです。脈を通す時はとても気持ちが悪く、局部に痛みを感じたり、身体の変化も辛く感じたりする場合もあります。ときにはたくさんの虫が身体の中を這っているように感じることがあります。脈は幾万もあり、知られている数本の脈だけでなく、縦横に交錯した脈は数多くあります。全身に電気が走ったり、冷たく感じたり、熱く感じたり、しびれたり、重くなったり、回る感じがしたり、とても多くの状態があります。感覚の上では全身に不快感を覚えますが、それは良いことです。それはエネルギーと身体の変化によるものです。あまりにも多くの感覚がありますが、皆さんはそれをすべて良いことだと思ってください。それは確かに良いことなのです。
弟子:覚者は大自在です。先生は大法を伝え、多くの学習者に責任を負うことができますが、いかに「大自在」を認識すればよいでしょうか?
師:あなたたちを済度しているため、私は自在とは言えません。私はあなたたちの罪を代わりに耐えています。あなたたちの業を代わりに引き受けるときもあります。(拍手) 当時の釈迦佛、イエスもこのようにしました。「先生、あなたはそれほど能力があるのに、なぜ面倒なことがあるのですか?」と聞く人がいますが、実は面倒なことは、皆あなたたちのものです。たとえば、ある学習者のために業を取り除き、残りの少しの面倒なことを、その人自身に耐えさせようとするのですが、やはり耐えることができません。このような小さな面倒なことに耐えられないからといって、その人を台無しにさせるわけにもいかないので、私が代わりに耐えます。このようにして面倒なことは私のところにやってくるのです。
人を済度するのは非常に難しく苦しいことです。私はイエスがなぜ十字架に磔にされたのかを知っています。釈迦牟尼がなぜやむを得ず涅槃したのか、そして、なぜ老子が急いで『五千言』を書き残して去っていったのかも知っています。正法を伝えるのはあまりにも難しいのです。正しくないものを伝えるなら、誰もそれを気にかけず、悪事をした後で自分が地獄に落とされ、消滅されるだけです。自分で自分を害しているからです。
弟子:高い次元の天魔はどのようにして高い次元や低い次元の覚者を認知しますか? 誰がこれらの魔を制約しますか?
師:神はさらに高い次元の神に管理され、高い次元の神はさらに高い神に管理されています。魔は宇宙の正と負の生命の現れであり、高い次元では低い次元のような認識はありません。羅漢の次元に達した時、人間のあらゆる考えはなくなります。人は死後、自分の身体(肉体)から出てくる時、生涯に行なったこと、三歳の時に行なったことでさえも、一分前に行なったばかりのことのように、ありありと目の前に現れます。この空間と時間を離れると、違った空間、時間になります。そこではすべてが行なったばかりのようで、その時、一生のうちに行なった正しいことや間違ったこと、すべてを知ることになり、その時になって初めて後悔します。その時に人の抑制された部分の考えが開放されますが、佛の智慧とは異なります。佛にはさらに大きな能力があります。
弟子:いかに師父の法身を供養すればいいでしょうか?
師:法身はすなわち私です。佛教を信じる多くの人は焼香したり、念佛したり、叩頭したり、経を唱えたり、毎日拝んだり、儀式も非常に盛大に行ないますが、儀式を終えるとまた自分勝手に振る舞うのでは、何の意味もありません。人はすでに佛を敬い仰ぐとはどういうことか、分からなくなってしまいました。一人の修煉者として修煉の中で苦をもって楽とし、自分のすべての執着を取り除き、慈悲をもって向上し、修煉の中で絶えず精進しているならば、どんな儀式を行なうよりも私は嬉しいのです。私はこの法を伝える時、人に対してほかに要求はなく、ただあなたが法を得て、その常人の心を取り除き、最終的にあなたを済度することだけが目的なのです。
もちろん、佛の法身も食べ物を必要とします。人が言うように、佛は何も食べないということではありません。佛は食べ物を必要としないと言う人がいますが、その人が本当に知っているにせよ、知らないにせよ、この言葉は間違ってはいません。佛は人間の食べ物は必要としません。しかし彼らは彼らの境地の中の食べ物を食べます。神は食べ物を食べなくても飢え死にすることはありませんが、飢餓を感じ、痩せてしまいます。そのため、彼らも食べ物が必要なのです。しかし、表面の物質ではなく、さらに微小な粒子で構成された物体です。焼香にも実質的な意味があります。今の和尚になぜ焼香をするのか聞くと、佛を敬うことだと答えます。なぜ佛を敬うために焼香するのでしょうか? ほかのことを行なってはできないのでしょうか? 実は、焼香で出てくる煙も物質で、それを構成する物質も表面の物体だけではなく、煙にもほかの物質体があります。神佛はこれらのものを演化し、生じたものを用いて弟子を加持するのです。
弟子:法身と化身?
師:私は化身について話したことはありません。釈迦牟尼佛の話した多くのことは正しいのですが、佛教の中で話されている多くのことは、釈迦牟尼佛の元の言葉と意味ではなくなっています。佛教の経書は釈迦牟尼佛が世を去って五百年後に整理されて出来上がったものです。五百年とは、皆さん考えてみてください。現在で言えば、五百年前にはアメリカはまだありませんでした。五百年前に誰かが何かを話したのを、今になって初めて整理した場合、当時とどれほどの差異があるでしょうか? 環境、時間、場所、その言葉の話された状況など、差異は非常に大きいのです。私が伝える法は佛教ではなく、化身を話したことはありません。私はただ法身について話しました。私は現在の人の思惟と現在の人類の文化に結びつけて話したのです。
弟子:アインシュタインは光速が一定だと話しましたが、これはほかの空間にも適用できますか?
師:アインシュタインが認識したこの理は、人類の範囲内での理で、今のところこの方面の認識は人類の最高の認識です。しかし人類の境地を超越したとき、アインシュタインの発見したものは、絶対的なものではなくなることに気づくでしょう。異なる次元には異なる理と物質の表現形式があります。上へ行くほど真理に近づき、正しくなります。高い次元で振り返って下を見ると、下の認識は宇宙の根本的な理ではなく、あるいは根本的な理にさらに近づくことができていないのです。真理を認識する勇気がある人は、前人が下した法則を突破する勇気のある人です。もしその法則の中に留まっているのなら、どのように研究しても、その法則を下した人の足跡に従って歩むことしかできません。それを突破できるなら、あなたは真理へ向かってさらに一歩近づくことになるでしょう。
人々は今の認識を超えたとき、過去の認識が絶対的な真理ではないことに気づきます。アインシュタインは光速が最高の速度だと話しましたが、皆さんに教えますが、同じ次元にいる生命の念力は光速よりも速いのです。しかも、人類のこの次元を超えたさらに高い次元では、時間の違いにより、最も遅い速度でも低い次元の最高の速度より速いのです。生命には次元があり、異なる次元には異なる時間と空間の形式があります。すべての衆生と物質はそれぞれの時間と空間の制限を受けます。次元が高いほどその速度は速くなり、そのため高い次元での最も遅い速度でも、低い次元での光速よりも速くなるのです。佛陀の能力は人間の能力よりも大きく、さらに高い次元の佛はさらに大きくなり、人類が知っている光速を遥かに超えています。
これらを話したのは、人類には人類の次元の理と認識すべき物質世界がありますが、これは人の認識に過ぎず、決して宇宙の真理ではないことを皆さんに教えるためです。これらを絶対的なものとみなさないでください。それはただこの次元での認識です。釈迦牟尼はなぜ法には定法無しという言葉を言ったのでしょうか? 彼は最後にまた「私は生涯、何の法も説いていない」と言いましたが、なぜでしょうか? 彼は悟りを開いた時、まだ如来の境地に達していませんでした。彼は、さらに上へ修めることを知っており、晩年にやっと非常に高い如来の次元に達しました。彼は法を伝える四十九年の間、彼の宇宙に対する低い次元の認識から徐々に高まってきた認識を話しました。彼は、以前に話したことは最高の理ではなく、さらに向上した時には、以前よりもさらに高い理を話していると分かりました。そしてそれも最終的な根本の理ではなく、話したばかりのことがまた間違っていると気づきました。これは彼がまた向上したためです。釈迦牟尼佛は、一生の間に話した法は、宇宙の最高の法、最高の真理ではないことを知っていたので、晩年に「私は生涯、何の法も説いていない」と言いました。しかし、彼はまた、異なる次元の法理は最高の理ではないが、それぞれの次元の生命が守るべき理であり、つまり、その次元の中での理である、ということを知っていました。異なる次元の理は上へ行くほど根本的な理に近づきますが、宇宙の中の神々は最終的な根本の法理を知ることはできません。そのため彼は「法には定法無し」と言ったのです。
アインシュタインが認識した道理は常人の中ではすでに最高のものです。アインシュタインがさらに研究を続けることができたなら、彼がさらに高い理を発見できたなら、彼もまた自分の以前の認識を翻すでしょう。実は、彼はすでに宗教の中にはさらに高い認識があるということに気づきました。アインシュタインはなぜ晩年に宗教を信じるようになり、宗教の門に入ったのでしょうか? 彼は宗教の中で説かれた理こそ真の理だということに気づいたからです。なぜ多くの科学者が最後に宗教を信じるようになったのでしょうか? しかも彼らは科学の領域で相当の実績がある人たちです。これはあの絶対的な実証科学の観念から考えれば、理解できないことです。実際には、たいした成果もなく、ただ他人が下した定義の中で動き回っているような人こそ、名ばかりの守護者なのです。真に成果を成し遂げた人は、その思想がどんな定義や結論にも制限されません。そういう人こそ、本当に聡明な人なのです。
弟子:煉功の時に心が静かにならないときは『轉法輪』を暗誦してもいいでしょうか?
師:はい、構いません。初期の煉功者にとって完全に入静するのは容易ではなく、一定の期間煉功してきた人でも、完全に入静するのはとても難しいことです。なぜでしょうか。皆さん考えてみてください。あなたたちは常人の中で生活し、常人の中で修煉をしています。修煉しているのはあなたたち自身であり、あなたたち自身が常人の中で生活しているからこそ、食べるため、住まいのため、着るものや、子供を大学に行かせること、また、今日誰かが病気になったり、明日にはまた何かの急用があったりと、人の世のあらゆることがあなたの邪魔をし、あなたは考えたくなくても考えざるを得ません。修煉の中で常人の心が執着しているものを非常に淡泊に見られるようになったとき、初めて静かになれるのです。これは常人の中で修煉することと矛盾していません。仕事や勉強をしっかりすることとも矛盾していません。つまり、何事をするにも自分の得失に執着しなければ、徐々にできるようになります。初めの頃にはできません。常人の心を淡泊にしていき、さらに淡泊になって、ついには執着しなくなったら、このとき思想は自然と清浄になります。
入静するには、宗教の中でも方法はありません。阿弥陀佛を唱えると静まることができるという人がいますが、それは煉功の方法であり、その過程ではやはり静まることはできません。阿弥陀佛をどのように唱えるのでしょうか? 一心不乱に唱えなければなりません。阿弥陀佛という文字が目の前に現れ、何もかもが空になり、何も考えなくなるまで唱え、この境地に達して初めて真に入静できます。その過程では、この境地に達することはできません。最初から一心不乱に唱えることはできるはずがありません。 初めのうちはなかなか一気に達成することはできません。たとえば、ある人は口で阿弥陀佛を唱えていますが、心の中では病気の子供のことや、誰かが自分をいじめること、彼や彼女のことなどを考え続けています。しかし、口ではまだ阿弥陀佛を唱えています。執着があれこれあって、どうやって心を静められるでしょうか。修煉するに従って、常人の中の執着が淡泊になるにつれ、あなたは自然に心を静めることができるようになるのです。しかし、一時的に静まることができなくても、修煉と向上の障碍にはなりません。皆さん、このことを必ず覚えておいてください。しかし、ほかの法門で修煉するときは、このことをとても重くみます。それは、ほかの法門では副元神を修煉しており、主元神を作用させないようにしているからです。
ほかの法門では「識神死して、元神生ず」といって、副元神を元神として扱っています。識神とはあなた自身で、あなたの識神が死ぬとあなたは本当に死に、代わりに副元神が身体を司ることになります。私のこの法門では、修煉者が最後に完全に心を静めることができるようになっても、自分がここで煉功をしているという微かな意識を保たなければなりません。これは執着ではありません。あなたが自分自身さえも分からなくなってしまっては、どうやって修めるのでしょうか? 佛は自分さえも分からないのでしょうか? そうではありません。
弟子:法輪功を修煉している人にとって、佛教の友人との関係をいかにすればよいでしょうか?
師:皆さんに教えますが、今日宗教を信じている人たちを修煉者としてみなさないでください。皆さんに一つの真理を教えましょう。神佛は人類の宗教形式や宗教に力を注いでいる人たちを一切認めておらず、真に修めている人だけを認めます。宗教は後世の人が始めたもので、釈迦牟尼は当時宗教を創立したわけではなく、集団で修煉する形式を作ったのです。彼は人々が執着しないように、出家して山中の森や洞窟で坐禅をするようにしました。このような宗教の形式にしたのは後世の人であり、世の人がそれを宗教と呼ぶようになったのです。しかし現在の人は分からなくなり、それを一種の宗教形式にしているのです。宗教というものを神佛は認めていません。洗礼を受け、受戒したからといって神佛が認めるわけではありません。それは人間が認めていることです。洗礼を受けたり、受戒したりすると天国に行くことができるというわけでもありません。帰依すれば佛家の人になれるということではありません。佛は人が願をかける時の心が誠か否か、そして人が真に修めるかどうかを見るのです。佛は形式を認めません。それは宗教が認めるものです。
佛教徒の友人に関しては、彼らを普通の人として接してください。人が何を信じようと人の勝手です。あなたたちは常人の中で修煉しているので、必ずほかの誰かと接触します。彼らにどのような信仰があっても真に修めることはできません。常人の友人として接すればいいのです。
弟子:法輪功を修煉し始めてから、ほかの学業は全部やりたくなくなり、ただ一心に修煉したいと思っています。
師:これは両面から話さなければなりません。一つは、この人は悟性が大変良く、根基が非常に良いということです。法を得てすぐに、これがどういうものなのかが分かり、修煉して向上が非常に速い人です。根基が良いので、悟性に優れ、多くの心を放下することができます。生命の根本は変わっておらず、ただ表面が俗世に汚染されただけで、表面の汚染を取り除けば、すぐ佛法の真理を認識できます。もともと常人のものにあまり執着しておらず、このような人は私が先ほど話したように比較的良い人です。
もう一つの情況は、根基が良くて、修煉の中で大法が良いと知っているのですが、まだ理性的に完全に大法の修煉に対する要求を理解できず、過去の修煉方式や出家した人の影響を受けることです。こういう情況が現れることもあります。
どんな原因であろうと、極端に走ってはいけません。私があなたに常人の中で修煉するようにと言ったのは、大法の修煉方式が決めたものです。しかも、大法は修煉者がどこにいても優秀であるよう求めます。学生であればしっかりと勉強し、社会の一員であればしっかりと仕事をします。同時にまた修煉者でもあるのです。
弟子:学法と煉功を始めて一年たった今でも思想業がまだあり、心の中であせっているのですが、どうすればよいでしょうか?
師:学習者は皆、素晴らしい人たちです。自分の不足を認識できるということは、すなわち修煉しているということなのです。私はこの人が言っていることが分かっています。先ほど一つの問題を話しました。あなたが法輪功を修煉し始めると、私はすぐにあなたの身体を浄化し、人の表面の最大の分子でできた層、あなたの思想の部分も含めてほとんどすべてを浄化します。しかし、あなたが常人の中で生活し、修煉を続けられるように、一部を残す必要があります。つまり、人心が完全になくなると人間の世で生きていけなくなり、人間のものがなくなれば、いっときも人間の世にとどまっていたくなくなるでしょう。私は、皆さんが新たな執着を生み出さずに、できるだけ現在の執着を放下するように求めています。
実は、もう一方から話すと、あなたのこれらの思想を完全に取り除き、良くない思想をすべて取り除き、執着を直接取り去ることもできます。しかし、これはしてはいけないことです。これは修煉ではありません。しかし、私はあることができます。つまり、表面からあなたを浄化して、あなたの思想をある程度まで清浄にすることですが、修煉のために少し残さなければなりません。さらに取り除くと、あなたは修煉できなくなります。あなたが常人の中で修煉できるように、私は内側の微小粒子の部分からあなたの身体を浄化し、外部の表面には、あまり多くの神通が現れないようにして、常人の中で修煉できる状態を維持します。あなたの生命の最も微小な部分から、内から外へと浄化し、最後に最も表面まで浄化し終えた時、あなたの最後に残った少しのものも取り除かれたなら、あなたは圓満成就します。取り除かれていない表面のものは、最後まで修煉できるようにわざと残されたもので、あなたが常人の中での生活を維持できるようにするためです。それがなくなれば、あなたは本当に常人の中にいることができなくなり、常人のいかなることにも興味を感じなくなります。このような状態が現れます。そのため、最後の一歩になって初めてその僅かなものが全部取り除かれるのです。
これは最も良い方法です。あなたは常人の中で修煉できると同時に、常人の中で正常に生活できます。同時に、あなたは自分に対して厳しく要求し、常人のように強い執着心を持っていてはいけません。あなたたちはこの道を歩み、このように修煉をしているのです。皆さんに教えますが、しばらくの間、少し常人の考え方や執着があっても気にしないでください。それらはわざと残されたものです。しかし、もう一つのことにも注意してください。もともとあまり修煉に精進していない人がいますが、そのような人がこれを聞いて「そうか、これは私に残されたものか。それでは気にしなくてもいい」と思い、自己を放任し、執着をなくそうとしなくなり、自分に厳しく要求しなくなります。これではいけません。それでは修煉していないことになります。
弟子:結婚はしていいのでしょうか?
師:私はあなたたちに常人の中で生活できる要素を残しました。弟子の中で若い人たちは、やはり所帯を持つように私は希望しています。将来の人類社会で皆、大法を学びにきて、誰も結婚しなくなったら、この人類社会も終わり、なくなってしまいます。これではいけません。しかも、若い人は未来の人のために子孫を残さなくてはなりません。そして未来の新しい人類のために、修煉の方式も残さなくてはなりません。
弟子:法輪世界はどれほど大きいのでしょうか?
師:法輪世界は非常に大きいのです。(笑い) 無量の衆生がいて、多くの佛や菩薩、羅漢がいます。
弟子:法輪功を修煉していても阿弥陀佛を唱えていいでしょうか?
師:念佛は修煉であり、阿弥陀佛を唱えれば浄土の法門を修煉することになります。法輪功を修煉して、さらに阿弥陀佛を唱えると、混ぜて煉っていることになります。私はどうしても法輪大法を修めるようにと言っているのではなく、どうしても放下できないのであれば、阿弥陀佛を唱えに行ってください。道理はすでにはっきりと話しました。末法の時期には、宗教の中で圓満成就するのが非常に難しくなっています。業をもって往生するという人もいますが、常人が考えるように容易なことではありません。人は自分の思想境地をかなり向上させて、主要な業力が皆取り除かれた状態で、残りの少しの執着をゆっくりと取り除くことができ、このようにして特別な状況が現れ、業をもって往生することができます。非常に汚い身体を持ったまま、この上なく清らかな天上に行って、佛の世界に行ったら、あなたをどこに置けばいいのでしょうか? そうではありませんか?
弟子:夜中に煉功するときに、魔の邪魔を感じます。夜中に煉功をしてはいけないのでしょうか?
師:あなたが真に法輪大法を修煉し、ほかのものを混ぜて煉っていないのであれば、どんなものもあなたを傷つけることはできません。新しい学習者がほかのものを混ぜて練ることがあります。そのため彼は大法のこの一門だけを修めているとは言えません。法の要求に従わず、動作を練るだけでは真の修煉とは言えず、問題が起こって私の名前を呼んでも、私は面倒を見ることが難しいのです。先生はどうして私の面倒を見てくれないのかと言いますが、あなたは大法を修めていますか? 私の要求に従って修めていますか? こういう道理ではないでしょうか? 佛を修めることは厳粛なことです。
弟子:太極拳と法輪功を一緒に煉ってもいいでしょうか?
師:いけません。太極、形意、八卦などの拳は皆、気功の要素があります。ほかの武術をするのは問題ありません。長拳、洪拳、南拳や少林などは問題ありません。太極拳は完全に気功に属しています。
今の人は太極拳をどのように使うか分かっていません。身体を鍛える健康体操としてみている人もいます。実は、太極拳は内外兼修の多くのものがあります。今の人はどう修めればいいか分からなくなりました。これは張三豊が太極拳の修煉の心法を人に残さず、動作だけを残したためです。そのため、後世の人は修煉できないのです。太極拳の動作はゆっくりとしていますが、そのエネルギーは表面の空間にはありません。人間の空間で人の動きがいかに速くても、太極拳の動作の速さには及びません。太極拳の動作はゆっくりしているように見えますが、それはほかの空間を通ります。皆さんが知っている古代の物語のように、神仙が普通に歩いていて、後から人が馬に乗って追いかけても追いつくことができません。常人から見ればとてもゆっくりと歩いているのですが、実はほかの空間を歩いているのです。
人は自分の拳の撃つ速度が非常に速いと感じますが、他の時空の速さには永遠に及びません。そのため、太極拳の拳や掌の動きは非常に遅く見えますが、あなたの動作がいくら速くてもそれにはかないません。その拳はとっくに届いています。ただ今の人は、このようなレベルに達していないのです。しかもその掌には功能があり、このような功能は人には耐えられません。武術は映画の中ではとても巧みに見えますが、実戦になると、なぜめちゃくちゃに手足を振り回したり、踏んだり蹴ったりするだけで、武術の功夫が見えないのでしょうか? なぜ武術の技法を用いることができないのでしょうか? それは、そこに功夫がないからです。もし彼に功夫があれば、人は避けずにはいられないのです。彼はその技を使わざるを得ません。つまり、今の武術に技法が見られないのは、内外の功夫がないからです。
太極拳はほかの空間に入ることができ、すでに修煉の中にあるので、完全に気功に属します。太極拳を煉る人は身体の変化とともに、思想の境地も向上して、初めて煉り出すことができます。修めて成就した道は神聖無比であり、人が想像するようなものではありません。現在の人は今の堕落した観念の中で古人のことを考えていますが、古人はそうではありません。
弟子:法輪は時計回り、逆時計回りだけでなく、斜めに回ったり、横になって回ったりすることもあるのでしょうか?
師:そうです。法輪はあなたの身体の状況に応じて、適切にあなたの身体を調整します。このように回ったり、あのように回ったりしてあなたの身体を調整します。初期に身体を調整するとき、法輪は任意に回り、回転の速さも変わります。身体の調整を終えると、法輪は下腹部に安定し、時計回りに九回、逆時計回りに九回まわる正常な回転になります。
弟子:息子は私が煉功することに反対します。
師:一部の人には家族が反対するという状況が確かにあります。やはりそれはあなた次第です。修煉に入ると、試練が待ち受けています。もしかすると、魔があなたの息子を利用してあなたの邪魔をしているのかもしれません。あなたが真に大法の修煉に入り、真に修めることができれば、私はそれを処理することができます。試練の中で私はあなたがどのように考えているのか、まだ修煉したいのかどうかを見ます。佛を修めるとは厳粛なことであり、意志がしっかりしていなければなりません。
弟子:坐禅するときは、できれば結跏趺坐がいいのでしょうか?
師:最後には結跏趺坐ができるようになってください。焦らずに煉ってください。皆、できるようになります。中国で八十歳を超えるお年寄りでも徐々にできるようになりました。大丈夫です。あなたが煉功さえすれば、やがてできるようになります。誰でも初めからできるわけではなく、無理やり組もうとしてもいけません。半跏趺坐もできないのであれば、あぐらを組んでも構いません。あぐらでもできなければ、膝が少し高くなっても構いません。座っているうちに膝は徐々に下がっていきます。毎回少しずつ下がってきて、最後に完全に下がれば半跏趺坐ができるようになります。始めは半跏趺坐で膝が高く上がりますが、問題ありません。毎回煉功するたびに、膝は少しずつ下がり、毎回下がっていきます。膝が完全に下がり、半跏趺坐で両脚が完全に水平になれば結跏趺坐をしてください。脚が平らになって、もう一方の脚を上に持ち上げることができれば結跏趺坐ができるようになります。
弟子:なぜ混血児はかわいそうだと言われるのでしょうか? 今世では中国人でも、来世では外国人になることもあります。地球上の人種や元神には、多くの種族が存在します。
師:転生は元神が転生するもので、混血したのは肉体です。異なる神が自分たちの異なる人間を造り、歴史の上で常に自分が造った人間を管理し続けてきました。白人は白人であり、黒人は黒人であり、黄色人種は黄色人種です。世界のいかなる民族も天に対応している人種です。混血した後は天の神と対応しなくなり、人間を創造する神はその人の面倒を見なくなります。これらの人にとっては、とてもかわいそうなことです。それではどうしたらいいのかと聞く人がいますが、皆さんは心配しないでください。私が話したのは人間の表面の状況です。人間の元神は混じっていないため、修煉したいのであれば、私はあなたを修煉させることができます。最後まで修煉できれば、同様に圓満成就でき、ほかの人と区別はありません。修煉に問題はありません。
常人がこのような状況であれば、とてもかわいそうに生きることになります。このような状況が集中している地域では、上の神が認めないので、一般的にはその地域の人たちは暮らしが貧しく、生活が困難です。
弟子:外国で学校に通っている中国人の子供は、西側の教育を受けています。修煉の中で彼らは外国語で『轉法輪』を理解しています。黄色人種に対応する世界へ行くことができるでしょうか?
師:元神は元にいた場所へ帰り、表面の身体には影響されません。よく修めることができれば、同じように圓満成就できます。しかし中国語の表面の意味は理解しにくく、表面の違いは解決できません。しかし修煉の中で、人類の次元を超越した内涵は影響されません。
弟子:人間の脳は非常に発達しているにもかかわらず、なぜ動物に制御されるのでしょうか?
師:人間の脳は少しも発達していません。人が自分で発達していると思っているのであり、しかも人も自分で脳の七割以上は使えないということを知っています。実は神によって閉ざされているのです。いかなる生き物でも、いったん霊気を得たら、この次元を超えて、ほかの生命を制御できるようになります。天理は許さないことですが、人が悪いことをして、それらの望みに符合したら、つまり自分でそれらを求めていることになり、それらはこれを理由にして人を制御できるのです。
弟子:功と法の関係はどのように理解すればいいでしょうか? 法輪功の向上と法理はどのような関係でしょうか?
師:これらはすでに『轉法輪』の中ではっきりと書いてあります。この問題は話せば非常に大きくなるので、簡単に話します。政治理論を専門とする人は、物質が第一かそれとも精神が第一かについて常に議論を続けており、この種のイデオロギーの論争が絶えず起こっています。皆さんに教えますが、物質と精神は同一のものです。功は法であり、法は功でもあり、精神はそれ自身が物質です。修煉者の心性の向上には基準があり、表面上も尺度があります。心性が向上すれば功も伸びます。功はあなたの頭上で功柱を形成し、功柱の表面には尺度が刻まれており、それが心性の高さの基準です。心性が高ければ尺度が上がり、尺度が上がれば功も伸びます。功の演化も非常に速いのです。ただあなたの心性が向上するかしないかで、心性が向上すれば功が上がります。そのため心性の高さがこの功の高さであることは絶対の真理で、どの法門でも同じであり、ただ小道の修煉はこれが分かっていないのです。
西側の宗教は功を講じません。釈迦牟尼が法を伝えた時も功のことは話さず、道だけが功を話しました。私が話したのは佛、道、神のすべてを含んでいます。もとよりすべての神、すべての法は皆宇宙の根本的な法から悟ったものです。法を話す中で、私はできる限りあなたに理解できるようにして、あなたが理解できる言葉を使っています。西側の宗教は修煉ではなく、東方の宗教は坐禅するので修煉だという人がいます。西側の宗教は修煉ではないのでしょうか? 西側の宗教も修煉です。イエスは、彼を信じさえすれば天国に行くことができると話しましたが、どういう意味でしょうか? イエスはいつも表面のことを話し、人にどのように行なうかを教えていたのです。これは西側の文化と同じで、内在の意味を講じず、行なえばよいということです。現在の人はイエスが説いた、信じるということがどういうことなのか分かっていません。イエスは、私を信じさえすれば天国に行くことができると話しました。実は、信じるということは、イエスの話した通りに行なって初めて真に信じていると言えます。イエスの話した通りに行なわない人は真に信じていると言えるでしょうか? 人は教会で礼拝を行ない、食事の前にも「アーメン」と唱えますが、常人社会に戻れば悪いことばかりを働きます。それでイエスを信じていると言えるでしょうか? イエスが話したことは、ただ「私を信じれば天国に行くことができる」ということだけでしょうか? なぜ彼はあれほど多くの人としての道理を話したのでしょうか? 彼の言うとおりに行なえば、天国に行くことができるということなのではないでしょうか? 「信じる」というのは概括的な言葉で、自分を修めて向上しないまま天国に入れるのでしょうか? 時間どおりに礼拝へ行き、いつも神の名前を唱えていれば神を信じていることになるのでしょうか? 待つだけで天国へ行けるのでしょうか? それではいけません。
あなたが懺悔をする目的はなんでしょうか? 懺悔は自分の間違いを知り、さらに良く行なおうとするもので、懺悔しながら悪いことをするということではありません。今日殺人をして、寛大にみてもらい、明日また殺人を犯して許しを求めるとしたら、誰が許してくれるでしょうか? こういう道理ではないでしょうか? あなたが悪いことをして懺悔し、今後もうそれをしないと誓い、本当に再び行なわず、また自分に良くない心があると気づき、懺悔の中で「イエスさま、どうかお救いください。私には良くない考えがありました」とイエスに祈り、その後、普段から善い行いを心がけるのであれば、それはまさに心性を向上させていることになるのではないでしょうか? まさに自分を修煉しているのではないでしょうか? イエスは功を話したことはありません。修は己にありて、功は師にありなのです。私はあなたたちが身体も修め、身体を変化させるため、重点的に功を話しました。イエスが功について話さなかったのは、あなたに知る必要がないからです。あなたはただ自分の心を修めれば、功はイエスが面倒を見てくれます。そのため彼は功については話さなかったのです。修煉は人の良くない思想と行為を修めて取り除くことです。境地が向上すれば、師父はあなたの功を演化する、という道理です。
弟子:釈迦佛は数億万年前に得道しましたが、生命が生まれるときにすべてが「真・善・忍」に同化しているのではありませんか、どうして得道する必要がありますか?
師:天上の衆生はすべて果位を持っているわけではなく、すべてが佛ではありません。すべての生命は宇宙の大法が造りだし、大法が創造したもので、宇宙の中で生まれたのです。しかしこれは得道することとは同じ概念ではありません。得道とは自分の果位を実証して悟ることです。釈迦は佛であり、非常によい佛です。しかし私のところで修めるのは釈教ではありません。あなたはこの法についてまだ真に認識していません。皆さんに教えますが、「真・善・忍」は全宇宙の法理で、全宇宙を創造する根本であり、つまりすべての最も原始的な神、および宇宙の全過程のすべての神を創造する根本なのです。釈迦牟尼佛も、もちろんその中に含まれています。宇宙も成、住、壊、滅の過程があります。釈迦佛は最も原始的な神ではなく、宇宙の中のすべての生命は壊滅へと向かいます。三界に近い衆生が世に下って新たに修煉するのは、その範囲の生命が純浄になる方法です。釈迦牟尼の話した理は彼がその次元で「真・善・忍」から悟った如来の法です。すべての如来は宇宙の真の根本的な法を話すことはできません。これは宇宙の根本の大法が宇宙を超越し、宇宙のすべての生命を超越しているためです。衆神はそれぞれの次元でしか自らの悟りを得ることができず、それは彼の一門のものです。それぞれの神は人間を済度する際、自分の次元よりも低い次元の衆生にしか成就させることができません。しかし、大法は根本的な大道であり、最も速く最も簡単に修めることができ、それほど多くの要求もありません。法はピラミッドのように、辺縁では低く、その次元の神はその高さしか理解できず、済度される者もその次元でしか圓満成就できません。如来がその次元で圓満成就すれば、それぐらいしか悟ることができず、弟子にも自分の一門のことだけを話します。それぞれの佛はそれぞれのものを悟っていますが、すべての佛は皆、真・善・忍の大法の法理の中で、宇宙の真・善・忍の根本的な大法を理解しています。彼らはさらに高い次元の神佛の加持を得て、正しく修め正しく悟り、理解できた分だけ知ることができて、それにより自分の修煉したものを形成し、その次元の法に同化します。
弟子:坐禅する時になぜ頭が先生の法像へ向くのでしょうか?
師:あなたの分かった一面が私を見ているからです。私の法身があなたを諭すときもあり、その時は異なる方法を使います。あることをした時に、それをうまく行なえたかどうか、正しく処理できたかどうか知りたいときは、本の中の私の写真、またはほかの私の写真を見てください。天目が開いているか否かにかかわらず、あなたが何か間違ったことをした場合、私はとても厳しい顔をしていますが、正しく行なえたのであれば、私はあなたに向かって微笑んでいます。(拍手)
弟子:先生の説法を聴いている時、とても正しく素晴らしいと思い、ときにはまるで自分の心を指して話されているように感じますが、終わってから、先生の話されたことを全部覚えることができなかったことに気づきますが、どうしたらよいでしょうか?
師:実際、私の説法を聴く場合、皆このような状態があります。私はたくさん法を話しましたが、あなたがそれを全部はっきり覚えることは不可能です。大丈夫です。修煉の中で問題にぶつかったとき、あなたは自分を修煉者として正しく対応できれば、私の話したことを思い出すことができます。きっとそうなります。もしその時、あなたが腹を立てて頭が混乱し、冷静でなければ思い出すことができず、つまりしっかり修煉できていないということです。しかし、一般の情況下では私の説いた法を思い出すことができるでしょう。もしその人がもう修煉できなくなったら、彼は永遠に私の説いた法を思い出すことができなくなります。私は繰り返し強調しましたが、この法は常人に聞かせるものではありません。ここに座っている皆さんは、皆縁があり、そうでなければ、あなたはここには入れません。
弟子:私が捨てられた小動物を引き取ったら、業を造ることになりますか?
師:これによって業を造ることはありません。常人にとっては良いことをしていることになります。しかし、昔の佛教では「殺さず、飼わず」と説かれていました。「殺さず、飼わず」には理由があります。「殺さず」は修煉者であれば皆分かっていますが、「飼わず」には二つの道理があります。一つは修煉の際に、これらの動物は霊気を得やすいということです。霊気を得ると、多くの悪いことをするかもしれません。中国で古くから言われている言葉でいうと、「精霊に成る」ということです。動物は修煉することが許されていません。二つ目の理由はこれらを飼うのはとても面倒なことであり、気が散ってしまいます。それを想うことも執着で、修煉に影響します。もちろん修煉者にとって、動物が好きことは一種の執着でもあります。
皆さんにある物語を教えましょう。皆さんが知っているように、釈迦牟尼はバラモン教に対して最も反対し、邪に変わってしまった宗教だとみなしています。バラモン教と釈迦牟尼の佛教は最も対立していました。実は、釈迦牟尼が反対したのはバラモン教であり、バラモンの神ではありません。しかもバラモン教が最も原始の時期に信じていた神は皆佛であり、釈迦よりもさらに早期の佛です。しかし、長い時が経つにつれて、人々は佛への正しい信仰を捨て、この宗教を邪なものに変えてしまい、さらには殺生をして佛を祀るようになりました。最後には信奉していた神も佛の姿とは異なり、怪物のような姿をした
妖魔鬼怪を信奉するようになってしまったのです。人間が宗教を邪なものに変えてしまったのです。もし佛教がこのまま発展を続けるなら、釈迦牟尼もそれを認めなくなるでしょう。皆さん考えてみてください。さらに時が経ち、その時の修煉者が過去の歴史を振り返ったとき、この宗教が邪なものとみなされるのではないでしょうか? 同じことです。宗教を邪なものにしたのは人間であり、神自体が邪なものではありません。
はるか昔、インドに一人のバラモンの弟子がいて、修煉をしていました。彼は山の中で独修をしていました。ある日、一人の猟師が鹿を追って、その鹿を射て傷つけました。この鹿がこの弟子のところに逃げてきて、彼は鹿を隠して保護しました。彼は山の中で一人でとても寂しく、この鹿を飼い始めました。人は執着心に注意しなければ大変なことになります。常人の憐憫の心や人心の情に対する執着はすべてこの小鹿に注がれ、後に彼はこの鹿に対してとても執着するようになりました。最後にはこの鹿は彼の最も親しい仲間となり、その結果、彼はすべての精力をこの鹿に注ぎ、坐禅を組むときにも思想を静められなくなり、鹿に何を食べさせようかと考えるようになり、精進することを緩めてしまいました。
数年が経ち、この鹿はある日突然死んでしまいました。彼はひどい苦痛に襲われ、いつもこの鹿を想うようになり、さらに精進できなくなりました。このとき彼の年齢はすでにかなり高くなっていました。修煉者でなければ生命は延長できず、彼はもう修煉できなくなったので、彼の生命も終わってしまいました。彼は生命が終わる時になっても修めていた佛法のことを考えずに、あの鹿のことを考えており、そのために彼は死後、鹿に転生しました。人が死ぬ間際に執着して何かを考えると、その人はその考えているものに転生することがあります。そのため彼は鹿に転生したのです。これはとても悲しいことです。一人の修煉者が、とてもよく修煉していたのに、最後に駄目になってしまいました。修煉者はできるなら、やはり動物に執着しないほうがいいのです。
弟子:焦るとき、他人に対して我慢できなくなった場合、どうすればよいでしょうか?
師:我慢できないことも質問するのですか? 我慢できなくても我慢しなければなりません。修煉者として、慈悲の心を持たなければなりません! 先ほど話したように、あなたは自分の敵を愛することができなければ、修煉して成就することはできず、佛になることはできません。皆さん考えてみてください。誰かがあなたに対して良くないことをしたときは、それはあなたが前世でその人に借りがあった可能性があるのではありませんか? その人に償いをしなくてもいいのですか? 当時あなたがその人に対して行なったことは、もしかすると、その人が今あなたに対して行なっていることよりも悪いことかもしれません。その人にもたらされた苦痛はあなたが受けたものより大きいかもしれません! 修煉の中でトラブルが起きるとき、偶然にみえます。誰かがあなたを怒らせたとき、あなたも以前偶然にその人を怒らせました。トラブルが発生する前に、あなたに教えることはありません。あなたが前世私を怒らせたから、今世で私もあなたを怒らせると教えるようなことはありません。多くのことは偶然にみえますが、偶然ではありません。
もしあなたが以前このようなことがなかったとしても、修煉者として向上させるために、あなたにこのような環境を作り出さなければなりません。あなたにとってこのトラブルは、なければなりません。私もまたこのトラブルを利用してあなたの心性を向上させます。心性が向上すると同時に、あなた自身の功も伸びます。心性が向上しているからです。誰かがあなたにトラブルをもたらしたとき、彼はあなたに徳を与えています。あなたは苦痛の中で自分の業力も徳に転化しています。一挙四得となりました。あなたはその人に感謝すべきですが、かえってその人を恨み、その人に対して我慢できないようでは間違っています。またある人はこう考えます。師父が私に忍耐するようにと言われたので、私は怒りを抑えます。しかし時間が長くなると「先生、我慢ばかりして、私はとても辛いのです」と言いたくなるでしょう。ですが、それは「忍」ではありません。真の修煉者は少しも怒ることはなく、どれほど大きなことでも心は動じません。なぜそれほど苦しくなるまで我慢するのでしょうか? これこそが修煉者なのです。また面子を気にして我慢している人がいますが、これも本当の忍ではありません。しかし、修煉している人で今の段階でまだ要求に達していないのであれば、やはり少し我慢することも必要です。
弟子:多くの大気功師は若い師父であり、多くの門派の師父が功を伝えていますが?
師:多くの人が功を伝えるのは天象がもたらしたことで、目的があります。しかし皆さんに教えますが、多くの気功師は自称しているだけで、実は気功師ではなく、偽者です。多くは、動物の憑き物や、ほかのでたらめなものによってもたらされました。世間の小道も多くの師父が伝えていますが、彼らの話はその次元の理です。このほかにも山の中で修煉する人がいて、私が接触した人の中には四千年あまりも修煉している人もいました。彼らはなぜこんなに長い間修煉するのでしょうか? 彼らの次元が足りず天に上がれないわけではありません。彼らの中には三界を遥かに超えている人もいますが、上に行くことができないのです。彼らが上に行くことは許されません。彼らを受け入れる世界がないためです。彼らはなぜ功が伸びるのですか? これもこの層の法理によって決められたことです。しかしそれらの世間の小道はまた異なっており、人為的にもたらされた場合もあります。初めは一つの門だけを修め、道家または佛家で修め、修めているうちに彼はとても良いと思いますが、他の人から「これを修めに来ないか」と誘われると、彼はそれを学びにいきました。そうすると彼の功は乱れてしまいます。もともと上のほうで師父が彼の面倒を見ていたのですが、この人がこうしているのを見て、上の師父はこの人を見捨ててしまいます。上に受け入れられないので、彼は三界を出ることができなくなりました。三界以外の生命は三界に入ることが許されず、三界以内の生命は三界を出ることも許されません。いくら高く修めても上から迎えに来なければ出ることができません。彼は混ぜて修めたため、その功は乱れ、三界に留まることしかできません。これは世間の小道の修煉で正果を得られない一つの原因です。そのため私は不二法門も非常に厳粛な問題だと話しました。
本を読んだことのある人で、先生、あなたは道家の師父と佛家の師父から伝えられたのではないでしょうか、と尋ねる人がいます。皆さんに教えますが、私が行なうことは違います。私は宇宙の法を話しています。私は佛家の法や道家の法、またはどれかの具体的な一門の法を話しているのではなく、宇宙の根本の大法を伝えているのです。そのため、私はいつもそれを大法、大法と呼んでおり、これは宇宙の根本的な法なのです。宇宙の中のすべての法門はこれに含まれています。皆さんに教えますが、私の今世の師父である佛、道、神は皆、数世前に私が彼らに伝えたもので、目的は彼らがこの時になって、私が大法を伝える時に私に伝え返し、私の記憶を開いて、そしてあなたたちに伝えるためです。(拍手) 常人社会で起こるすべてのことは偶然ではありません。大法を伝えるというのは非常に大きなことであり、将来さらに多くの人が学ぶようになるでしょう。そのため、宇宙に存在するさまざまな不正な要素による妨害や、三界内で大法を伝えることを妨げるもの、さらには滅茶苦茶な霊気を帯びた動物や低級な霊が引き起こす災いもまた、決して偶然ではありません。
弟子:私たちのこの次元では本物と偽者の気功師を区別することができません。今後どのように対処すればよいでしょうか?
師:あなたが今、本物と偽者の気功師を区別しようとする目的は何ですか? あなたは今、やはりほかの講習会に参加したいのですか? そうでなければ、なぜ区別する必要があるでしょうか?(拍手) 気功の講習会に参加したことのない人が、私の話を聞いて、「修煉とはこんなにも博大で奥深いものなのか」と感心し、「さらに他の気功師の話も聞いて、知識を増やそう」と考える場合があるかもしれません。しかし、そのように考えるのは間違いです。私が話しているのは大法であり、他の場所では決して聞くことはできません。不二法門は非常に厳粛な問題です。
また、これらを単なる知識として扱ったり、ほかの法門に参加したりすれば、私が話した法を一言も思い出せなくなるかもしれません。修煉は厳粛なことであり、本物と偽者の気功師を見分けることはできません。彼らの特徴は、金を騙し取ることです。表面上は善を説いているように見える人もいますが、その心の中は金のためであり、それを見極めるのは非常に難しいのです。
弟子:大法に対して興味を持っていますが、修煉するかどうかを決めかねて、自分を修煉者として律することもできない人に対して、私たち輔導員は手伝うべきでしょうか?
師:学習者によってはやはり認識の過程が必要な人もいると思います。入門したばかりの人が、長い間修めている学習者のような高い境地に達することはできません。彼らには認識の過程を与えてください。煉功に来たければ来ればよいのです。煉功したければ教えてあげてください。徐々に彼が良いと思うようになったら『法輪功』を貸してあげて読ませ、あるいは本を買って読むようにさせてください。こうして彼がとても良いと思い、認識も高まってくれば『轉法輪』を読ませ、彼自身がだんだんと深い認識を持てるようになります。もしあなたが彼に「私たちの功を煉ると薬を飲んではならない。私たちの功を煉るとすぐほかの信仰をやめなければならない。私たちの功を煉ると、一気にある一定のレベルに到達しなければならない」と要求すれば、彼は怖がって逃げてしまいます。まず試しに煉功させてみて、良いと思うなら彼は自分でどのようにすべきか分かるでしょう。
人を済度するのはとても難しいことです。その人が長期にわたり不二法門の修煉を堅持することができず、あるいは動作だけをして本を読まないのであれば、ほかの気功を練るように勧めてあげてください。そうしなければ問題が起こり、彼にとっても良くないのです。彼がここにいても良くない作用があります。彼がここでまじめに修めなければ、私の法身も彼の面倒を見ないので、彼はただの常人です。常人は時が至れば病気にかかり、法を乱す魔が彼を利用して何かをして、突然変な状態になるかもしれません。修煉は専一でなければならないことを常人は知らず、いったん問題が起きると、私たちにとても大きな損害をもたらします。彼が専一に修煉し、法を学ぶことができないのであれば、離れるように勧めるか、もしくは彼の家族に話して、もう煉功しないように彼を説得してください。
弟子:私は以前学校で武術を教え、武術の教師をしていました。今は法輪大法を学び、太極拳を練習しなくなりましたが、学生に教えることができますか?
師:構いません。しかし、修煉の要素があるもの、太極拳を含めて、すべて修煉の問題に関わってきます。あなたがこの仕事で生計を立てているのなら、行なっても構いません。学校で太極拳を教えているのなら教えても結構です。特殊な状況は特別に処理します。このような状況でないのなら専一に修煉すべきです。しかし私は思うのですが、法輪大法を彼らに教えたらもっといいのではないでしょうか?(拍手) 中国では学校の教師で、体育の時間に法輪大法を教えている人もおり、煉功した後、皆座って学生に本を読んで聞かせています。授業中、これほど静かになったことはないと学生自身も話しています。
弟子:法輪は見えるほかに聞こえることもありますか?
師:法輪功を煉るとどんな功能も出ます。天耳が通じると他の空間の音声が聞こえる人がいます。
弟子:大法を修煉する人は所帯を持つことができますか?
師:できます。修煉の中で、私はあなたたちが自分自身を修められるものを残し、常人の中で修煉し、常人の生活様式に則った形で修煉を続けられるようにしています。また、未婚の人が満足できる良い相手を見つけ、家庭を築くことを願っています。将来、夫婦ともに修煉するようになれば、結果として相手を済度したことになるでしょう。ただし、それを基準として、相手が修煉しないなら結婚しない、ということではなく、常人の状態に符合して修煉すべきです。
弟子:先生が先ほどお話された、仕事上での努力についてですが、私は非常に頑張っているのに、上司が私を引き合いに出して同僚に圧力をかけており、とても困っています。
師:上司がどうしようとあなたとは関係ありません。もし上司があなたに他人へ圧力をかけるように指示したら、これは処理しやすいと私は思います。あなたは婉曲に自分の意思を伝えればいいのです。修煉者として私たちはほかの人を傷つけてはいけません。ただこれはあなたの責任なので、行なっても問題ありません。しかし善をもって問題に対処すべきです。会社に損失をもたらさないために、正当なことであれば、あなたも行なうべきだと思います。このような具体的なことは、すべてうまく行なうことができます。しかし、絶対に修煉者の原則を越えてはならず、悪いことをしてはいけません。
弟子:私たちはアメリカで被害を受けた場合、訴訟を起こすことができます。しかし、真・善・忍を考えると、法律に訴えない方が正しいのでしょうか?
師:些細なことで警察を呼ぶようなことはしないでください。トラブルの中にはあなたたちの修煉や業を返すこと、そして向上することなどの要素が含まれています。そのためトラブルが発生したとき、それが非常に深刻な脅威でなければ、あなたを傷つけることがなければ、すべて偶然なことではないでしょう。本当にあなたを殺しに来たり、家に火をつけようとしたりして、あなたに非常に大きな傷害を与えようとするのなら、警察を呼んだり、法律に従って解決してください。そうでなければ、このようにしなくてもいいと思います。
修煉者として、個人の修煉の中で、個人の認識の向上の過程で、あなたの修煉と関係ないことは起きないようにしています。今後の個人の修煉での向上の道は私が細かく按排したもので、必要のないものはあなたたちには按排しません。(拍手) 法律がどれほど整備されていても、人の心を管理することはできません。見えないところでは、やはり悪事が行なわれます。法律を多く制定すると、人にとっては害が大きくなり、多くの人は覚えられません。何をしても法律に違反するということが起きるかもしれません。法律を制定する人は、この法律で他人を管理しようとしているのですが、いったん制定すると、その法律は法律を制定した人自身をも管理してしまいます。人間はすでに自分たちのために作りあげたすべてに耐えています。法律は厳しくなる一方で、人に対する制限も厳しくなる一方です。将来、動物を管理するように人を管理するようになるでしょう。人はそのようなことを望んでいませんが、それもまた人が自分で作りだしたもので、自分でそれに耐えなければなりません。現在の人はすでに自分が自分たちのために作りあげたすべてに耐えており、しかもこのすべては絶えず人類を封じ込めています。
神は人間の法律を認めません。神は、それは人が堕落したので仕方なく採った手段とみています。神は心法と道徳のみを認めます。道徳があれば法律がなくても人は悪いことはしません。そうではないでしょうか?
弟子:上帝とは何ですか?
師:異なる民族は異なる神が造ったものです。人間にとっては彼らを造った神が彼らの上帝になります。これは人間の身体を指して言っていることで、人の元神についてはまたほかの由来があります。
弟子:アメリカで法輪功を修煉するのと中国大陸で修煉するのとは、どういう違いがありますか?
師:違いはありません。西側の国では、東洋の黄色人種とは異なるそれぞれの空間の体系が確かにあり、宇宙のさらに大きな空間の中の異なる体系に対応しています。これらの異なる空間の体系すべてには、それぞれの空間を構成する特殊な物質要素があり、東洋人にも彼らの特殊な物質で構成された要素があります。多くの人はアメリカに来て、時差以外にも、もう一つの適応する過程があり、何となく内在的そして外在的に慣れないと感じます。これはまさに物質要素の違いと生活環境の違いによるものです。昔の人は「土地によってその土地ならではの人が育つ」と言いましたが、本当にそういうことです。これらの要素は常人にとって非常に主要なもので、東洋人の文化の内涵は西洋とは異なります。たとえば中国人は数字や発音にこだわります。「八」と「発」や、「死」と「四」など、よい音を好み、悪い音を言うことを嫌います。東洋のこの物質環境の中でも、確かにこのような物質要素があり、常人に対しても小さな作用があります。しかしこれは西洋にはなく、西洋には西洋の物質環境の要素があります。たとえば、東洋人には地理方位の風水がありますが、西洋人にはまったく効果がありません。絶対に効かないのです。アメリカの白人や黒人、あるいはほかの民族のために風水の指南をしても、まったく効き目がありません。西洋人は「13」という数字を非常に嫌います。また、星座について話すこともありますが、こうしたことは東洋人にはまったく関係がなく、効果もありません。そのため「13」は東洋人に対しては何の実質的な意義もありません。空間の環境にはその物質を構成する成分があり、それほど簡単なことではありません。どのようなものでも、物質環境により構成された基礎がなければ成立できません。
弟子:妨害と先生が按排された魔難を、どのようにはっきり見分ければよいでしょうか?
師:私の按排自体を魔難と呼んではいけません。実は私はあなたのために何かを造ったわけではなく、あなたにもともとあったものを利用して按排しています。あなたにもともとあった業力の一部を取り除き、残りの少しを心性を向上させるために乗り越えるべき関として使い、あなたの修煉の過程の適当な位置に置きます。向上すべき時になれば、その関を乗り越えなければなりません。そのため、あなたがトラブルにあったときには、正しく認識すべきです。これは私があなたに按排したもので、本当の修煉者のようにできさえすれば乗り越えられます。
弟子:先生が私たちに行なってほしいことと行なってはいけないことは、どのようにしたら分かりますか?
師:法を学びさえすれば、行なうべきこと、行なうべきでないことは自分で分別できます。私が思うに、危ないことや良くないことで、あなたが行なうべきでないことをどうしてもやろうとすると、どうしてもそれができなくなり、さらに強引にそれを行なおうとするとトラブルに遭います。これらのことはあなたが分別できます。自分で悟ってください。すべてあなたに教えたら、どうやって修めることができるでしょうか?
修煉の中での笑い話を一つしましょう。中国のある学習者は電気技師をしていました。ある時、彼は電流が流れた状態で仕事をしており、変圧器を修理していました。変圧器は三万ボルトもの高圧であり、人が触れると瞬時に身体は電流に貫かれ、同時に焼け焦げてしまいます。この学習者は変圧器のもう一方に回ってネジを入れようとしました。そのとき彼を遮るものは何も見えませんでしたが、彼はどうしてもそこに足を踏み入れることができませんでした。これは危険があることを彼に知らせ、行かせないようにしていたのです。しかし、彼はどうしても向こう側へ行こうとしました。電流が流れたまま作業をしていたため、その結果彼は行って、ネジに触れた瞬間、「バチッ」と感電しました。このように、行なうべきでないことや危険が伴う場合には、何らかの形で気づかせることがあります。普通の人であれば、その場で焼け焦げてしまうところでしたが、彼は大法を修めていたおかげで、命の危険はありませんでした。彼は自分が爆発したかのように感じました。身体全体が「ドカーン」と音がしたのです。彼はすぐに冷静になりましたが、ほかの人は非常に驚きました。ほかの人たちは、その瞬間「ドーン」と音がして、彼の全身が大きな火だるまになったように見えました。電流は彼の手から身体に入り、足の裏に穴を開けました。そのとき彼は、私は修煉者だから大丈夫だと思い、怖がることもなく、自由に動けて、何事もなかったかのようでした。しかしその後、その電力会社の管理者が来て、彼にどうしても病院へ行き、検査するように言いました。仕方なく病院へ検査に行くと、医師も非常に驚きました。不思議なことです! これほどの高圧電流では普通なら焼け焦げて、人はとっくに死んでしまいます。電流は上から下まで通り足の裏に穴まで開けたのに、なぜ死ななかったのでしょうか? 足の裏の穴から血も出ず、穴の中は焼け焦げていました。医師も非常に不思議に思いました。
大法を修煉する人の身体は高エネルギー物質に同化されているため、常人の電気程度ではたいしたことは起こりません。ただし、彼の最も表面の部分はまだ完全には修められておらず、この層だけが電流で貫かれました。この層だけ貫かれましたが、身体全体は無傷でした。この話をするのは、大法を修煉する人には驚くようなことがあっても、危険はないということを教えるためです。ただし、誰かがこれによって執着心を起こし、わざとすべきでないことをするのであれば、それは本当に危険な結果を招く可能性があります。
弟子:私たちはなぜアメリカで修煉するように按排されたのでしょうか?
師:アメリカの科学技術は発達しており、これらを身につけることが将来必要になるかもしれません。アメリカに来ているのは皆、東方の優れた人たちです。(拍手)
弟子:坐禅を組むときは必ず入静しなければいけませんか?
師:ただ脚を組む練習をするだけでも構いません。中には「脚が不自由だからもっと練習したい」と言う人もいます。それなら坐禅しなくても、脚を組む練習をしながら、同時に入静できればさらに良いのではないでしょうか? ただ脚を組む練習をするだけでも構いませんが、煉功するときは入静しなければなりません。
弟子:『轉法輪』を読むときに坐禅を組むと何か役に立つでしょうか?
師:役に立ちます。本を読むときに坐禅を組む利点としては、一つは脚を組むことをたくさん練習でき、二つ目は、それは煉功でもあるということです。これはとても良いことです。
弟子:友達の子供は生まれつき耳が聞こえません。法輪功を修煉することはその子にとって役に立つでしょうか?
師:その子の病気を治せるかということでしょうか? これは簡単には言えません。病気を治すために修煉してはいけません。しかしあなたに教えますが、耳が聞こえないのは彼の肉体であり、彼の元神は問題ありません。人が真に修煉すれば、どんな身体でも正常になれます。修煉者には修煉者の基準もあります。ただこの病気のために来ても、心の病を放下できなければ、よくなることはありません。佛法修煉は厳粛です。
弟子:夫が絶食して私が煉功することに反対しています。
師:このことは実際あなたがどう対処するかの問題です。家族の人が邪魔をするのは次のようなことが考えられます。一つはあなたの信念が堅いかどうかをみるため、二つ目は修煉者の心性がどうなのかをみるため、三つ目は身内の人が業を取り除く手伝いをしている、ということです。完全に大法を受け入れられない人も、きわめてまれにはいます。
弟子:先生は説法の中で神の生、老、病、死の形式に触れられましたが、それについて少し話していただけないでしょうか?
師:過去の宇宙には成住壊滅があり、宇宙の中の生命には生老病死があり、ただ異なる空間で時間の長さが違います。違いは非常に大きく、時間が長く生死がないかのようなところもあれば、短くて一瞬にして終わってしまうところもあります。成、住、壊の形式の中では、たとえば宇宙の形成段階があり、安定した時期があり、そして衰えて壊滅に向かうのです。これは過去の宇宙の根本的な形式で、宇宙の中のすべての生命物質の運動の規律でした。
質問にはまだ答えきれておらず、まだ多くの質問が残っています。しかし、私が法を説く時間はもう終わりとなり、会場も閉まる時間になってしまいました。多くの人がまだ私の解答を聞きたいと思っているのは分かっていますが、ここで終わるしかありません。もし機会があれば、ほかの都市でまた会うことができると思います。今回はこれくらいにしておきます。特に感謝したいのは、ヒューストンの地元の学習者たちです。彼らの努力のおかげで、私はここで皆さんと直接会うことができました。当初の予定では、午後の時間だけが割り当てられていましたが、スタッフの退勤時間もあり、ここで終了しなければなりません。非常に残念です。皆さんも名残惜しい気持ちでいっぱいだと思います。師に一度会わないと安心できない方もいると思いますが、今回私に会えたことで、心が少し落ち着いたのではないでしょうか。実際のところ、私はあなたが修煉に励んでいる限り、常にあなたのそばにいます。
私は、この場にいる皆さんがこの貴重な機会を逃さないことを願っています。私の説法を直接聞ける人は多くはありません。このような機会、すなわち説法の機会は、今後さらに少なくなるかもしれません。ですから、今回私たちがこうして会うことができたことを、ぜひ大切にしてほしいと思います。修煉の中で、あなたは自分に対して責任を持たなければなりません。この法を得たからには修煉を続けてください。これは、あなたの仕事に支障をきたすものではありません。どんなに忙しい中でも、ぜひ一度試してみてください。もし私の話した通りでないと感じたら、やめても構いません。何も失うものはないのです。良いと思うなら修煉を続けてください。佛法の真相は、徐々にあなたの前に現れてくるでしょう。
皆さんが今回の機縁を大切にするよう願っています。今後の修煉の中で、絶えず精進し、真に修煉して、真剣に『轉法輪』という本を読んでいくことを願っています。何度も多く読んで、それに加えて煉功してください。そうすれば絶えず向上することができます。毎回本を読むときに、異なる感受と問題を感じるでしょう。あなたたちが昇華してきたら、あなたが感じた問題は、次回本を読むときに解決されます。しかし、あなたは新しい問題をまた感じるようになり、さらにもう一回読むと間違いなくそれも解決されるでしょう。そうすると、あなたはまた新しい問題を感じるようになります。このように絶えず修煉し、絶えず前に進み、昇華するのです。
同時に、トラブルや魔難、苦痛や辛酸に遭ったとき、私は次の言葉を中国の学習者にも話したことがあります。「行ない難いと感じても、試しにやってみてください。耐え難いと感じても、試しに耐えてみてください。」将来、皆さんが絶えず修煉して向上したとき、私たちが再び会えば、今とは違っていることでしょう。皆さんが修煉の過程で絶えず向上し、圓満成就するまで精進し続けることを願っています。修煉の中で私に会いたいと思うならば、実は私はいつもあなたのそばにいるのです。(拍手) 今日はここまでにします。